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里の秋

童謡、唱歌には季節の風物を唄ったものが多い。花鳥風月をシンプルに唄い込むという点で俳句と似ている。かつて高浜虚子(たかはまきょし)は俳句というものについて「花鳥を諷詠する文学」といったものだ。さてここで唱歌の中で秋を唄ったものの代表が「紅葉」だとするならば、それと双壁をなす秋の童謡がこの「里の秋」であると筆者は考えるのである。もちろん他にも「赤とんぼ」や「夕焼け小焼け」など秋を唄った優れた童謡があるけれどこの「里の秋」には独特の存在感がある。

「里の秋」の作詞者である斎藤信夫(さいとうのぶお)はかつて小学校の教師をしていた。そして詩を書くことが好きで仕事の合間にせっせと詩作しては童謡雑誌に投稿していた。「里の秋」の美しいメロディーの作曲者・海沼實(かいぬまみのる)との出会いは昭和12年ごろである。あるとき「遊戯と唱歌」という教育者向けの雑誌を見ていると、いつも童謡の新曲を投稿している海沼實という名前が目についた。この頃の海沼實は作曲家としてはまだ全く無名だった。彼が作った合唱団「音羽ゆりかご会」の運営もようやく軌道に乗り始めたばかりで生活は苦しかった。海沼に興味を持った斎藤は東京の護国寺を訪ねた。この寺の幼稚園が当時の「音羽ゆりかご会」の練習会場だった。お互い駆け出し同士、童謡にかける抱負などを語り合ったのだろう。

それから月日は流れ、日本は次第にアメリカとの戦争へと傾いていく。「里の秋」の原型となる「星月夜」という詩を書き上げたのはそんな頃だ。千葉県の九十九里浜に近い成東町(なるとうちょう)に住んでいた斎藤は夜になると星空を見上げながら詩想を練った。当時は今と違って、地方の町の夜は真っ暗になる。満天に無数の星がまたたくのを眺めていると吸い込まれそうな感覚になる。それはまさに「里の秋」の歌詞に出てくる「明るい、明るい 星の空」という表現そのままである。

千葉県成東町に行くと「里の秋」の歌碑が
城跡公園の片隅にひっそりと立っている。
昭和57年に成東町が郷土の詩人斎藤信夫を
顕彰するために立てたものである。
裏面には成東町の刻印がある。

この「星月夜」が後に名作童謡「里の秋」として知られるようになるのだが、詞の内容は我々が知っている「里の秋」とは大きく違っていたのである。「里の秋」は周知のように1番と2番で秋が深まりゆく山里の静かな生活を歌っているのに対し、3番では太平洋戦争が終り南方の島々から引き上げてくる兵士たち、つまり「父さん」の航海の無事を祈りますと結んでいる。ところが「星月夜」には4番まであったのである。1、2番は「里の秋」と全く同じだが、3番では出征している父さんの武運を祈り、4番は自分も大きくなったら兵隊さんになって国を守りますという子供の抱負をうたっていた。

「星月夜」が書かれたのは昭和16年であり、まさに太平洋戦争が始まろうとしていた頃だったのでこのような内容になるのは至極当然であった。斎藤はこの作品をを海沼實のもとへも送っていた。しかし海沼からは何の反応も無く月日が過ぎていった。やがて戦争が激化していくなかで斎藤自身もこの作品のことは忘れていただろう。もしも海沼がこの「星月夜」にすぐに曲をつけ、戦前に発表していたら現在の「里の秋」は無かったわけであり、やはり名曲の誕生には何か運命的なものがつきまとっているのだろう。

昭和20年に入ると日本という国にとっても運命の時が迫りつつあった。日本軍は祖国から何千キロも離れた南海の島々で追い詰められていた。レイテ、サイパン、ガダルカナルなどで無謀な突撃玉砕が繰り返され、何万人もの兵士が犠牲になった。その多くは赤紙一枚で駆り出されてきた若者たちであっただろう。「なぜ我々は祖国からこんなに遠くまで来て戦い、死んでいかなければならないのか」という悲痛な叫びとともに戦場に散っていった。

そして昭和20年8月15日、幾多の犠牲をもたらした太平洋戦争は終った。斎藤はこの時期激しく悩んでいた。彼は戦時中、日本の軍国主義を素直に信じ、授業でも子供たちに神州不滅と教えていた。だがその神州が敗れ去った以上、自分は大勢の子供たちに嘘をついてきたことになる。とうとう彼は教壇に立つことに耐えられなくなり、教師をやめてしまう。この頃の日本には自分の過ちを素直に悔い、職さえも投げ出す骨太の教師がまだたくさんいたのだ。だからこそ、戦後の日本の教育はつい最近まで世界最高の水準を維持することができた。

それはともかく、終戦直後のことであるから教師をやめても他に仕事のあてはなく、千葉の実家でぶらぶらするしかなかった。そんな頃一通の電報が届いた。文面には「スグオイデコフ、カイヌマ」とだけ書かれている。カイヌマといえば、あの作曲家の海沼實のことだろうか。しかし彼とは何年も前に一回会ったきりでその後は特につき合いはない。でもこうしてわざわざ電報を打ってきている以上無視するわけにもいかない。とにかく東京まで行ってみることにした。

城跡公園から見下ろす成東町。
水田の向こうには九十九里浜が広がる。

応接室で緊張して待っていると、海沼はニコニコしながら現れた。手には何やら古い雑誌を持っている。そして、その雑誌をペラペラめくりながら意外なことを言い出した。それは斎藤が以前書いた詩を書き直してほしいという話であった。雑誌のページに載っていたのは彼が昭和16年に発表した「星月夜」だった。

詳しい事情はこうだ。
約1週間後に神奈川県の浦賀港に南方からの復員兵を乗せた船がやってくる。今後も続々と入港してくるであろう。NHKでは復員してくる兵隊さん達を歓迎する番組を放送することになり、そのときに流す歌を作ることを海沼のもとへ依頼した。

そして海沼が何か適当な詞はないものかと、古い童謡雑誌をひっくり返して調べているうちに斎藤信夫の「星月夜」に目がとまったのである。だが先にもふれたようにこの詩の3、4番はこのままでは使えない。そこで1、2番はそのまま使い、3、4番は捨てて新たに3番として復員兵を迎える内容の詞を書いてほしいと斎藤に頼んだのである。しかも放送まであまり日数が無いので急いで書いてくれという。少々厚かましい依頼とも思えたが仕事もなくぶらぶらしていた時期だったので受けることにした。

軽い気持ちで引き受けたものの、詩のテーマの根本的な変更なのでなかなか筆が進まない。机の上に広げた原稿用紙をにらんであれこれ悩んでいるうちにとうとう放送の当日になってしまった。あわてて歌詞を書き上げ、NHKに駆けつけると童謡歌手の川田正子を連れた海沼が待ちかまえていた。ここで海沼からまたもや注文が入る。それは「星月夜」という題名が「ホシヅキヨ」と濁音が入るのは童謡の題名としてはあまり面白くない。1番の歌詞からとって「里の秋」としたらどうかということであった。とにかく時間がなかったので、もう題名など何でもよいという感じで海沼の意向に従うことにした。そして昭和20年12月24日、「外地引揚同胞激励の午後」という番組で

ああ 父さんよ ご無事でと
今夜も 母さんと 祈ります

川田正子が歌い終えたとき、スタジオ内がしーんと静まりかえった。そしてスタッフの誰もが一瞬、心が浄化されるのを感じた。次の一瞬、我にかえるとデスクの電話という電話がけたたましく鳴りだした。さっき放送された歌についての問い合わせがNHKに殺到したのである。さらに翌日以降も問い合わせや感想の手紙が束になって押し寄せた。一つの歌にこれほどの反響があったのはNHKでも初めてのことであった。

かくて、一躍大ヒット曲の作詞者となった斎藤信夫はその後も海沼と組んで叙情的な作品を多く残すことになる。だが根っからの教師であった彼はプロの作詞家になる道は選ばず、やがて教職に復帰した。また、それまでの間は川田正子の家庭教師をして急場をしのいだ。もうひとつの隠れた名作「蛙の笛」を発表したのもこの頃のことである。


2001/10/30

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