MIKOTO NO TUTAE 夜桜編

  まるで夜が広がっているかのような黒髪だった。真昼間だという言うのに、彼女の腰まである髪がたなびくと、そこだけ暗闇や星影が垣間見えるかのようだ。

 スタイルが良い女は多い。顔が良い女もいる。だが、色気を身につけた女は少ない。色気を自覚している女はもっと少なかろう。彼女は控えめながらも誰にでも判る色香を振りまいていた。

 フワリといい香りが漂っている。女が近くを通っただけで、なにやら甘い気配を感じる。見えない絹糸でさらりと触れられたような感じがする。着物の裾がフワリと舞う。楚々とした、淡い青地に桜の花びらの柄だ。

 少しトウがたった頃か、振袖なのだが、華奢な彼女の皮膚には皺一つ無かった。そんな女がすっとフツウの弁当屋に入っても、違和感は無かった。“食べる”というシーンを想像はできなくても、それでもサマに成っていた。

 本当にすうっと、音も無くそのドアを開く。

 誇張では無い。女は先ほどからずっと、衣擦れの音一つ立てては無かった。

 弁当屋の名は“にこにこ弁当。どこにでもある在り来たりの弁当屋だ。

 昼時には工場のオッサンや近くのOL、めんどくさがりの主婦などで意外と繁盛するものなのだが、昼とも夕方ともつかない時間帯は店内は閑散としている。

 女は弁当屋のカウンターで、ちょっとだけ“新発売! にこにこ弁当すぺしゃる”の広告に目をやったが、忙しそうに厨房で働いているオバサン達は、彼女の存在に気がついていない。

 女は彼女らに声をかけもせず、当然のような振る舞いで、その奥へと進んでいった。厨房に用があるのか? いや彼女はもっと奥へ、普通の民家になっている場所へと滑り込んでいった。そして、子供部屋らしきドアの前迄来て、さも当然の様にその戸を引き開きながら、中に居る人物へと、鈴の音のような澄んだ声で語りかけた。

「魅琴ちゃん、お久しぶり」

「夜桜さん!」

 先から妙な気がしてならなかった魅琴は、既に臨戦体勢に入って居たのだが、彼女の声と姿を確認してその警戒を解いた。魅琴にすら、誰であるか特定できない曖昧な気配だったからだ。

「色街を統べる夜桜さんがこんなところに何の用かしら」

「こんなところって言い方は無いんじゃない? 一応貴女の家なんだから」

 小首を傾げて、魅琴を嗜める夜桜。

 魅琴は机の椅子に座り、夜桜は彼女のベットに腰を下していた。

 本棚と、机、そして部屋の半分を占めるベッド。壁にはポスターの一枚も貼ってないし、机の上には充電中の携帯と、小さなラジオが申し訳程度に陣取っているだけ。本棚には教科書とノートが整然と並べられている。女の子の部屋としてはかなり失格だ。もちろん魅琴にとっては実利優先で、下手な飾りを見るとイライラして来るのだった。

 それに、魅琴は自分の家(と言う事に成っている彼女の家族)が弁当屋と言う事を他人に知られたくない。だから今まで一人も、親友の照山紅葉すら部屋に招待した事は無かった。彼女の敷居をまたぐのは、彼女の僕に成ったものだけである。余談だが、昼の彼女の弁当は売り物もしくは試作品である。

 夜桜は過去に何度か、ミスカトニック・“のっぽの”=サリーこと、竹内沙理の紹介で顔を合わせている。夜桜、と言う名前だけなら有り触れた源氏名である。だが、一部官僚達や経済界で囁かれる場合は別だ。

 夜叉小路 夜桜(やしゃのこうじ よざくら)、またの名を音無しの夜桜。かつて吉原を牛耳っていた風魔の末裔とも噂されている妖女。風俗・水商売での出来事は全て彼女の耳に入ると云い、彼女の気に入らないものは全て、迅速な手段でスキャンダルに陥れさせられる。

 尤も、彼女自身が動く事はそうある事では無い。変な煽りで裏の世界のバランスが崩れないように気を使っているだけなのだ。性は人間を巻き込んで莫大な富を産む、そしてまた、性は人間から膨大なエネルギーを紡ぎ出すゆえに、無秩序に任せていれば必ず破綻する。日本では徳川の世に吉原が出来、一定の秩序の元で外の世界と隔離されていた。夜桜は苦界の、今の主である。

 夜桜に最初に逢ったのは、魅琴が阿寝子市に居を移したばかりの頃だった。右も左もわからぬままに、後見人と称する竹内沙理に連れられて、様々な場所やモノを紹介された。今の住処もそうだ。オバサン一人と従業員二人、それが魅琴の今の家族。彼がお膳立てをして“調達”して来たらしかった。

 夜桜に関しては少しお茶をしたぐらいで、予備知識ぐらいしか知らされないでいたし、それぐらいで十分だった。深入りするべき問題ではないと思っていたからだ。

 魅琴とたわいも無い話をしてみせる夜桜は、その美しさもさることながら、普通のお姉さんである。

 お姉さん、という言葉が似合いそうな落ち着いた雰囲気と、時折見せる可愛らしい仕草。男なら思わず抱きしめたくなるだろう。女でも、彼女の髪に触れてみたいと思う。その膝で甘えてみたいと思う。柔らかなふくらみに戯れに触れてみたいと思う。夜桜の、年長者のみが持つ色香に、魅琴は少し変な気持になってきた。

「それで、魅琴ちゃん。裁定者になったって話だけど。相方さんは?」

 急に話題を変えられて、魅琴は面食らった。刹那魅琴はどう言うべきか考えたが、夜桜の情報網からすれば相方を知っていて当然だろう。魅琴は黙って、ドアの方を示した。

その瞬間、バーンと扉が開いて、コン=ロンが踊り込んだ。タイミングを見計らっていたらしい。

「あうあうあう、コンに内緒で秘密の話、良くないネ!」

 夜桜の、あくまで大人しめな雰囲気とは好対照の赤裸々に明るいコン=ロン。場の雰囲気が一転する。コンは、夜桜の隣にどっと腰を下した。夜桜は別に、悪い顔はしない。

「あう、この人………げ! ヨザクラ!」

「コンちゃん、お久しぶり」

 慌てて逃げようとするコンの襟首を、夜桜はまるでいたずらっ子でも捕まえるようにあざやかに掴んだ。コンは本当にいたずらっ子のようにパタパタともがいている。魅琴は少し呆けたような顔でそのやり取りを見ていた。物理的に、邪仙であるコンに対して、全く不可能な構図だと思ったからだ。

「知ってるの?」

「だってわたしが教えたのよ」

「何を?」

「この娘の術やら技やら」

 夜桜は、コンを後ろから抱きしめる。口元をコンの肩に埋め、両の掌は無上の柔らかさを誇るコン=ロンの胸をまさぐっていた。並みの人間なら、その手触りだけでイク、そのぬくもりだけで理性が蕩ける、指先が受ける刺激が全身に広がって、もう戻っては来れない。それを夜桜は自分の思う様に揉み解している。魅琴の目の前が真っ暗になった。突然光が弾け飛んで、少しずつ宇宙が出来ていくイメージが広がっていく。

 ショックを隠せない魅琴に、くすくす、と夜桜は笑って見せた。コンの笑いよりも抑え目ではあるが、無邪気で、本当に隙だらけの笑顔である。

「この娘の方が“年上”よ。そこまで私、オバサンじゃないわ」

 どうみてもコンの方が若く見える。むしろ、夜桜にとってはコンも小娘に過ぎないのかもしれない。生きた年月よりも過ごした年月とは謂うが…もちろん、彼女らに“人生”という言葉が当てはまるとは、魅琴は思わない。

「あうぅ〜…… ヨザクラ、上手いネ……」

 コン=ロンが身悶えている。微笑む災厄と怖れられ、淫欲の禍神として畏怖されているコンが弄ばれている。魅琴はコンの春気を喰らいかけて、人から転落しそうになったというのに。

「この娘、私の所から逃げだしたの。私の五体をバラバラにして壺に詰めた上でね」

「あうあうあう、出来心あるぅ〜!」

「それでね、魅琴ちゃん」

「………、ん?」

 夜桜はコンを自分の膝の上に寝かせる。仔猫のように従順に、コンは夜桜に甘えていた。夜桜が髪の毛を掻き分けて、耳の後ろやうなじ、首筋を撫でてやると、コンはゴロゴロと喉を鳴らした。魅琴は目の前の現実から、危うく逃避しそうになっていた。

「裁定者って言葉はいいけれど、結局うわべだけよ。気をつけなさい」

「…それを言いに来たの? そんなワケなさそうだけど」

「私が来たのはナコトの事」

 コンですら“コンちゃん”呼びする夜桜が、ナコトと言う事葉には敬称をつけない。それだけで魅琴の背筋に戦慄が走る。

「サリーさんは何も言ってないでしょ」

「アメリカに高飛びしちゃったよ。音信不通」

 くす、とコンを弄ぶ手を休めずに、夜桜は微笑んだ。

「あの娘には深入りしちゃだめよ」

「ンあ〜〜あ〜〜 キモチイイある〜〜!!」

 チャプチャプチャプチャプ………触れるだけで正気を失うはずのコンの花弁、轟々と音が聞こえてきそうなほど渦巻いている淫の力場。その力場を渦巻かせているのは彼女の指先だ。絡みつき、飲み込もうとする力に夜桜の顔色は変らない。変って行くのはコンの表情だ。コンの、少し釣りあがり気味の目尻が痙攣する。

 魅琴が見たことの無い、コンの悦楽の顔。魅琴の能力も技術でもまだ、コンに遊ばれる事はあっても、コンを満足させることなど到底出来ない。

「顔を合わせる機会は多くなると思うけど、軽く流してやってね」

「ひゃっ!ひっひっひっ! イイある……ィィぁ……あーあーあー!!」

 コンが睦声を上げている。素晴らしく良いヨガリっぷりだ。甘く、激しく、そして美しい声が響く。ずん、ずんと胎の奥に響く声だ。コンの胸ははだけ、ぷりぷりした乳房には夜桜の白くしなやかな指が丹念な愛撫を繰り返している。

 指使いが凄かった。まるでコン=ロンが琴になって、それを弾いているかのようだった。夜桜の指が跳ねるたびに、コンの声が甲高く上がる。女は楽器だとよく言うが、夜桜のそれは見事な演奏振りだ。

 演奏者は自らの奏でる曲に満足げだ。そしてその曲の素晴らしさは魅琴がよくわかっていた。こんなに上手く鳴かせることはそうは出来ない。

「はうはうはう……好好!! 好好!! ………我倒了!」

 コンがびくん、びくんと全身を引きつらせると同時に、夜桜の手に飛沫が迸る。コンはそのままぐったりと項垂れるが、どろりとした液体を垂らしながら、夜桜はコンを解放した。

「若い女の子の愛液は絶好の回春剤とは言うけど、仙女のは効きそうよね」

 そして、その指を、舐めた。

 白く濁ったコンの妖液を、なんの躊躇いもなく夜桜は啜る。その口元も、瞳も、てらりと光る液体も、妖艶。

 くたー―と幸せそうな表情で俯いているコン=ロン。魅琴は表面上は普通の顔でいたが、内心、悲鳴をあげたい気持だった。もう忘れかけていた、心の混乱。パニックに陥らないように必死で自分を制していた。

「賢い魅琴ちゃんなら理解してくれたと思うけど」

「わざわざ夜桜さんが忠告にいらっしゃった、と言う事を含めてね」

「いいお返事ね」

 床の上で恍惚の域を彷徨うコンをそのままに、夜桜は美しく立ち上がった。美しく、としか言いようが無い。彼女の人外の美しさは彼女全体を観察させてくれはしない。パーツの一つ一つの美しさすら計り知れないのだ。どうして全身を思い描く事ができようか。

「暇だったら、お店寄って頂戴。歓迎するわよ」

「私、一応未成年だし」

 魅琴は苦笑う。

 夜桜もまた微笑んで、音も無く部屋の外へと消えていった。

「はう、魅琴。ヨザクラと知り合いだたか。下手な事出来ないね。」

 とろんとした表情でコンが魅琴を見あげた。だが彼女はコンに構っている余裕は無かった。どさり、魅琴は壁に寄りかかった。顔は真っ青だ。

 ハァハァハァ…息が上がってしまっている。目が点だ。魅琴のパンティの中はどろりとした愛液で湿っていた。火傷しそうなほど下腹部は熱かった。入り口が、膣が、子宮が熱い。ビクビクと淫核が震えていた。夜桜が喋りながら、何気なく放っていた“淫気”、コンとの交わりで紡いだセクシャルなエネルギーがが魅琴の身体に叩きつけられていた。普通の人間なら、一撃で夜桜の、淫欲に喘ぐ“犬”と化していただろう。コンが冗談で放つものとは格が違った。

「昔の私なら………負けてた 負けて……た………」

「あうぅ〜 魅琴ぉ〜 もっと欲しいね〜」

 コンが身体を摺り寄せて来たので、魅琴はクルリと背を向けた。

 普段の魅琴は、コンに背を向けるなんて、無用心な事はしない。

 バタンと扉を閉めて、そこに寄りかかった。部屋の中では今ひとつ物足りないコンが自分を慰め始めようとしていたが、魅琴にはそんなことはどうでも良かった。夜桜って、こんなに強かったか? …いや、違う。元から強いんだ。

 魅琴は背中をドアに預けたまま、左腕で額を拭おうとして、そのまま止まった。拭いたいのは目尻だった。

 悔しい。

 手も足も出せなかった。相手はあまりに強力で、自分はあまりに非力だった。自信が音を立てて崩れていった。考えてみれば、今の今まで彼女の力に気がつかなかったのだ。もちろん、サリーだってアレぐらいの力はあるのだろう。その片鱗すら察知出来なかった自分に、腹が立った。

 更に、コンのことを知っているならば、コンの昔を知っているならば、全ては、自分の事も含めて以前から、魅琴が生まれるそれ以上前から仕組まれていた事になる。自分の意志で生きていたつもりの魅琴である。それが他人の掌で踊らされていた事を知らされて、悔しくないはずが無かった。

 だが、どうして夜桜は魅琴の前に現われたのか。じっと、魅琴はそのままの姿勢で考えた。色々と思いが浮かぶうちに、次第にネガティブな感情は薄れていった。自分は自分、何が立ちはだかろうが、その時はそれを超えていくのみ。堕胎屋(おろしや)という業を既に背負った以上、立ち留る事は許されない。

 魅琴は意を決すると、左腕をぶんと振り下ろした。その瞳は涙に濡れたウサギの眼ではなく、しなやかに獲物を狙う豹の瞳だった。

「八重垣魅琴…か」

 ふらり、ふらりと夜桜は黄昏の街を歩いていた。

「面白い娘ね」

 在るか無いか瀬戸際の存在感で、いつのまにか現われた竹内ナコトが、夜桜に声をかけた。ナコトは夜桜よりもほっそりとして、そして物鬱げで、少し病寂なようにも見受けられる。

「面白いわよ…私の獲物だから」

 夜桜はそう言いながら、ナコトの横を通りすぎようとした。

「そうなんだ。でもこれは?」

 パンっ! 夜桜の着物の裾が揺れた。魅琴がこっそり忍ばせていた濡場魂が、ナコトの気に感化して裂けたのだ。

「あら、嫌だ」

 夜桜はしらっと言ってのける。本当は知っていたし、ナコトが気がつかなければ彼女に移してやるつもりだった。

「闇でも無く…光でも無く…人でも無く…魔でも無く…」

 魅琴は独り呟いていた。濡場魂が破壊された事は彼女ももちろん気がついていた。夜桜達のやりとりを濡場魂を通して読み取っていたところだ。だが、神をも繋ぎとめる濡場魂が、いとも簡単に、芽吹く前に砕け散ったのだ。ただ事ではない。

 しかし、魅琴は恐怖を感じなかった。かつて濡場魂を上手く操れなかった時の、懐かしい感触だ。

 魅琴は、初めて他人の処女を奪った時の事を思い出して、少しゾクゾクした。
 


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