毒吐きって言うのは、平たく言えば代弁者な訳ですよ。 通常言えない、口に出すと何が待っているかわからない、 胸に閉まっていることを、バシッと言ってみるわけです。 商売で毒を吐いているのは北野武、小林よしのり等が上げられると思います。 特に小林氏の作品は本気で読むと火傷をするでしょう。 彼は物事をはっきりさせる為にワザとピエロを演じていると思ったほうが良いかと。
言うからには反動が来ます。だから普通は酒の場で毒が吐かれることに成ります。 もっとも、クッションの掛かった場所ですし、毒を吐くことが許される場所ですから。 しかし、それだけでは足りないので職業で毒を吐く、代弁者が必要なわけです。 討論番組の質が下がっているのは、一般ピーポーの毒吐きの代弁をしているので どうしてもあのレベルになってしまうのです。一般ピーポーを越えたレベルで会話をしてしまうと、 見てる側に(自分が分からないものだから)フラストレーションが溜まり、 番組として成り立たなくなってしまうのです。あれもワザと、ですよ。
しかし、Webの発達などで一般人も毒が吐けるようになりました。 ただ、これもまた問題で、同じ一般人が毒を吐いていると、 それに羨望してたてつく人が現れるわけです。 また、一般ピーポーは“ワザと毒を吐く”という思考が理解できません。 ある人が言ってることはその人にとってすべて真だと考える人間も多いのです。 そういう人は言葉の枝葉をまるで鬼の首のように嬉々として取り上げて来ます。 まぁ、それを軽くあしらえる器量は毒を吐く以上 (毒を吐くセンスを持っているわけですから)持っているわけです。 それがまた、一般ピーポーは悔しいわけです。
こうして、毒吐きの毒のセンスが磨かれていけば良いのですが、 えてして数の暴力に巻き込まれることが有ります。 数の暴力と言うのも面白いもので、同じ考えの一派がある程度の人数を 越えれば生じる“力場”みたいなものです。 もちろん、傍から見ると善悪のない“力場”なのですが、 集まっている人間にとってそれは“正義”なのです。 相手が悪だから人間が集まっているものだと思う、 つまり「自分と似た考えが多い=正義」だと思っているおめでたい人もやっぱり多いわけですね。
信じるべきは自分、自分を信じる為には努力が必要です。 積み重ねた経験と知識に裏付けられて、そしてそのための努力をして 初めて自分を信じることが出来ます。そして、また、人を信じること。 自分を信じることができれば、他人を信じることが出来ます。 何が問題なのか、何を改善すれば良いのか、見えてくるはずです。 そうすれば、人も自分を信じてくれるでしょう。 お互いに理解することが出来ます。
上っ面だけではダメだという事です。毒吐きはなにかしら真実を突いているからこそ毒なのです。 そのためには、真実を知ることが必要です。内面を見ることですね。 ただ虚言を吐いても、それは車の音に反応する飼い犬の遠吠えのようなものです。
ボクは、フィクションの世界で毒を吐いていきたいと思っています。 毒で塗り固めた世界。それは日常では意図的に避けている世界です。 避けていないと世の中渡っていけない、だからこそ毒なのです。 ボクは毒を吐くぐらいしか、芸が無いんじゃないかと常々思ってます。 何かに対して、吠えてないと不安になるのです。
翻って言えば、生きていくには正直なのですよ、僕は。 怖がりで臆病で、そのくせ卑怯なところがあって面と向かっては 吠えることは出来ません。むしろ、逃げてばかりいます。 だからなのでしょう。毒という形でしか本当のことが言えないのです。
でも、進むしかなのですよ。