信じること

 ふと、猜疑心という事を考えてみて思い当たる。 僕の場合、信じる−信じないという軸は疑う−疑わない、の軸を逆にしたものだ。 しかも“疑わない”というのは積極的な理由があるのではなくて、 考えるのがめんどくさくて、適当で“疑わない”という事にしているだけである。 これは“信じる”とは違うものだろう。信じることは疑うことと同じぐらい エネルギーを使うはずだから。

 そういえば、愛ってーのも、好きのもっと強いものだと勘違いしていたのだけど、 ホントは質的に違うのだと思う。思うのはいいのだけど未だに良く分からん。 悲しいことである。

 そんなわけで、自信というものは僕にとって“つべこべ思い考えないこと”だったりするわけで、 あまり胸を張ってどうのこうの、というレベルまでは達してない。 逆に、自分で自分の首をしめることで、自分を蔑んでみたりとかして、 それでなんとか“考えないように”しているだけだったりする。 積極的に自分を信じた覚えがない。

 これって、場数踏んで、それでもって“これで大丈夫や!”って 言えるようになることだと思うのですわ。練習あってはじめて、 本番を乗り越えられる、みたいな。僕も修士論文の発表は 何度も何度も、練習したのですよ。発表のVIP貰いましたし。

 とりあえず飛び込んでみる蛮勇も、たまには必要だと思うのです。 それが、やっぱり、場数に繋がるのではないかと。 ・・・ま、一番大事なところで失敗しなければ、 何処でどれだけ失敗しても良いのです。自分がそれに耐えられるなら。 耐えることができる、それが信じるってことですかね。

 裏切られても、それでも信じるのが人間というものなのですよ。 まぁ、前提がずっこけていればそれはただの思い違いですが。 ・・・それもやっぱり、場数なんだろうな。


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御於紗馬:oosama@aba.ne.jp