『ランボー』のラストでさ、「我々は国を愛している。だから国も我々を愛して欲しい。」 ってあったよね。日本の場合、国を愛するなんて言うとアレ扱いされちゃいます。 恐ろしいことです。多分、世界でここだけではないかと思うのですよ。
愛国心と、過去の賛美ってのは違うわけで、というのは当たり前なことでして、 好きな人に対してメロメロになるのではなく、悪い所は悪いと指摘しつつ、 怒りながら泣きながら、互いに成長していくのが愛だと思うわけです。 そんな発想すらこの国には無いような気がするのですよ。
政治からも経済からも、一般人は離れています。 関わらなくても困らないからです。というより、関わりかたすら知りません。 一般人は銀行にお金を預けるだけです、借りたりしません。投資したりしないからです。 税金は勝手に天引きされます。それをどう扱っているのか分かりませんし、分かったところで今はどうにもなりません。 それで国民というのだから、情けないものです。
考えたのですけど、殆どの国会議員って恐らく、自分の地元のことを考えているわけで、 それでお金を地方に撒くわけです、国のお金なのに。 国のこと全体を考える人間と、人間個々のことを考えるのは別だと思うのです。 もちろん、国が暴走しないように監視は必要ですが、一度お伺いを立てるシステム自体、もう無理だと思うのです。 まぁ、簡単な話ですが、地方のことは地方がやるべきなのに、そうは行かないのは国の仕事を地方がやって、 地方のお金を国が握っているからです。
国の借金が増えているのは、それはもちろん使うからですが、 どうしてそんなに金が必要かというと、無理して、しかも大雑把に使っているからだと思われます。 無駄を削るには、無駄をしなければいいわけですが、今はそうでないわけです。 地方にお金を回す、という回り道があるため、それでまた余計にお金がかかるわけです。 国が倒れると、今は地方も共倒れです。全国民が苦しむことになるし、 他の国にも迷惑がかかります。
僕は別に、個人は社会の歯車で良いと思ってるのですよ。 というか、そうであるべきで。キッチリ噛み合えば機械は軽快に進みます。 それは傍から見ても気持ちのいいものであると思うのです。 今は、無駄が多く、歯車同士が離れてしまっていると思うのです。 少し手をいれて並び返せば、日本も軽快に、愉快に動き始めると思うのです。 まだ間に合うと思ってるのです。
ちなみに、一応言っておきますが、ネジの理論ではいけません。 かつてのソ連のように使い捨てのネジとして、個人の意思を無視して配置してはいけません。 そうではなく、自分の意志で選ばれた、適材適所が望ましいのです。
日本人は、日本を必要としてるのでしょうか。 日本語しか使えない人が、仕方なく住んでいるだけではないでしょうか。 英語教育が失敗しているのは、わざとでないでしょうか。そんな風に思うのですよ。
国が愛してくれなければ、国民も国を愛せません。 素直に、国に対して感謝できないから嫌われるのです。 さて、私には何ができるのでしょうかね。
P.S.でも、皇室は人気あるんだよねぇ。