チョモランマ奇譚
(あらすじ)
超能力結社ノアは人類の殲滅を目指す悪のサイキッカー軍団である。
ノア総帥キースの友人バーンはエミリオとウェンディーを連れ彼らに挑む。
しかし、悪の秘密結社らしくノアの本部はチョモランマ山頂。
ヒマラヤの自然は超能力者にとっても過酷なものであった。
「寒いの、ウェンディー…」「頑張れ!絶対寝るんじゃないぞ!」
寒さで肌に粟が立つ。白い息が痛々しい。空ろな目が泳ぐ。 気弱になるウェンディーをバーンが叱咤する。 しかし、実の所バーンの炎を操る能力ですら、そびえ立つチョモランマの 自然の力には無力であった。既に力尽き、気合だけで熱を発している。 背中で弱々しく、エミリオがか弱く蠢いた。彼の体力は既に限界である。
風使いのウェンディーすら操れない、寒風が吹き降ろしていた。 超能力者である彼らの飛行能力も無情な空気のカーテンには無力であった。 千尋の谷にへばりつきながら彼らは少しずつ山頂を目指していた。 足場は雪で覆われ、容赦なく体温を奪っていく。
先程、凍り付いたゲイツが雪崩に巻き込まれて暗い口を開けるクレバスへと落ちていくのを見た。 軍の叡智をかけたサイボーグもオイルすら凍りつく寒さと計器が狂う程の低気圧、 そしてエネルギーを転換するだけの酸素の無い巨大にそびえ立つチョモランマの前では一介の鉄屑でしかなかったのだ。
最後の電流が止まった時、彼の電子頭脳の脳裏には妻と娘が焼き付いていた。やっと谷を越え、雪にまみれた平原、いや氷原に辿り着く。 しかし自然の猛攻は未だ留まる事を知らない。荒れ狂う雪と嵐が彼ら三人を襲った。
「あ、おねぇちゃんだぁ。おねぇちゃん、こんなところにいたんだぁ。」
「ウッ、ウェンディ?しっしかりしろ!」
甘い瞳で、うっとりと何かを眺めている。雪のスクリーンに姉の面影を認めたようだ。
「あは、あはは、おねぇちゃんだぁ。おねぇちゃん、しんぱいしたんだよぅ。」
バーンの声は、彼女には届いていなかった。幻の姉に向かって語り始める。
「あのね、おねえちゃんがいなくなって、うぇんでぃーとってもさみしかったんだよ。 ほら、おぼえている?おねぇちゃんがたんじょうびにくれたくまさんのまぐかっぷ、まだだいじにしてるんだよぉ。」
淡々と昔話をする彼女、舌がもつれ、遥か彼方をみやる彼女は遠く残した 過去の思い出を今走馬灯のように思い出しているのかもしれない。 バーンは焦って、彼女の頬に何度も何度も平手打ちをする。しっかりしろ! 戻って来るんだ!彼女を現実に引き戻そうと努力を尽くす。
しかし、現実は辛すぎた。背中のエミリオがふと顔を上げた。 内気な彼が滅多に見せる事の無い、満面の笑みを浮かべていた。
「おかぁさーん!!!」
背中から飛び降り、突然駆け出したエミリオをバーンは止める事が出来なかった。 バーンの足元の雪が行く手を阻む。数歩で動けなくなった。 ブリザードに飲み込まれるようにエミリオは視野から消えた。
「あははは、あはは、あはははははは。」
ウェンディーは相変わらず“あ”と“は”の音を出し続けていた。
寒さに凍えていたのはバーン達だけではない。ここに居を構えるノア側も甚大な被害を被っていた。
培養液が凍り付き、ソニアは氷塊から出られなくなった。 その瞳は何を映すでもなく、人の手によって造られた仮初めの肉塊に戻っていた。
「白いィィィ白ぃぃぃ!白いんだよぉ!!!」
元々狂っているブラドですら、ここでの生活は我慢できなかった。 ある日ぎらぎらと輝く太陽と、限りなく光を乱反射する雪の耀きに導かれて 何処ともなく姿をくらました。彼自身の両方の人格の意見が統一されたのは 始めてだったかもしれない、こんな所にはいたくない。 しかし直に同じ見解を得た、早まった、と。
「何故です!この私の時が止まるなんて!」
ウォンも自室で冷たくなりかけていた。 自分のノア乗っ取り計画をキースに気づかれないようにするために、 部屋の全ての電源を切ったのが運の尽きだったのだ。暖房も効かない。 時を操る彼ですら次第に感覚を失う身体をどうする事も出来ない。 破滅へと向かう時の流れを逆行させる事は無理だった。
「この程度でへこたれるとは・・・我が同士として恥ずかしいぞ。」
氷の男キース、絶対零度を操る彼だけは、一人元気であった。 ただ、イギリス紳士として紅茶が飲めないのだけはかなり我慢ならなかったが。
「暑いよぉ・・・」
ウェンディーは盛んに体を掻き始めた。霜に覆われた素肌に赤い筋が浮ぶ。 あまつさえ衣服を脱ぎ取ろうとしているのをバーンは必死でおし留めていた。 感覚器官の限度を越えた“冷たさ”は“熱さ”として知覚される。 体中が焼けるような感覚を彼女は味わっていた。 人はこれを“八甲田山現象”と呼ぶ。衣服を脱いでしまえば、急激に体温は奪われて行く。
玄真が全裸で、しかも両の手でタオルをしっかり握り締め、背中側に通していた。 いわゆる寒風摩擦の格好である。その顔は生前と同じく、恫喝したまま凍り付いていた。 影高野での修行は日本各地の霊山で行われる。玄真も或る程度は山の知識は心得ていた。 しかし、密教発祥の地チベットの霊山とは年期が違い過ぎた。
雪が積もれば、立派な氷樹になるだろう。「眠いの?ウェンディー・・・」
もう、彼女の感覚はすっかり麻痺していた。半開きの口から、喘ぐように声を漏らす。 ふかふかと積もった、雪の布団に温もりを感じていた。零下の風も彼女には春のそよかぜ、 がんがんと鳴り響く耳には姉の子守り歌が聞こえ始めていた。 キラキラと、色とりどりの光が乱舞する様を、彼女は素直に受け入れた。 甘美な痺れが体中を、そして意識を覆う。
思考が、とまりつつあった。「キース!ここを開けろぉ!!」
ようやく、バーンがノア本部に辿り着いた。こぼれる涙も瞬時に凍りつき流れることはない。 唯独り、彼はここまで辿り着く事が出来た。いや、彼も後どれだけ持つか分からない。 気合だけ、精神力だけで動いている。彼の肉体はすでに凍てつき始めていた。
「待っていたぞ、バーン!」
姿を現す総帥キース!ノア本部の塔のてっぺんに彼の姿はあった。
しかし・・・その姿は黒い海パン姿であった。サングラスを外す。「日光浴中だったのだ、失礼。今すぐ着替えてこよう。」
しかし、脱力したバーンが二度と立ち上がる事は無かった。