大宮 義弘さんのページ.....遍路日記




【 註 】 大宮 義弘さんは、終戦により陸士中退後、県立香川師範学校卒。 中学校教員の後、毎日新聞
   に入社、一貫して紙面編集に従事され、昭和 57年に退職。 現在、東京・東久留米市に在住。

  四国を歩く
 1997年の春先、四国を歩いて一周した。 弘法大師ゆかりの霊場 88カ所を巡拝したのだが、歩く
ことが主目的だったので仏様には少しくお詫びしなければならない。 乗物を一切利用せず一番札
所から徒歩で結願寺に至る、いわゆる「歩き遍路」の一人となってみたのである。 36日かかった。
 四国遍路の全行程は普通 1400キロといわれる。88札所のほかに主要な番外寺を含む数字であ
ろうか。ある案内書の距離表で概算してみたが、とても及ばない。 最短で 1200キロという人もあ
れば 1300キロだったと書く巡拝記もある。 迷って行きつ戻りつするであろうし間違えて遠回りする
こともある。 遍路行もいろいろである。
 2月22日に鳴門市板東の一番札所 ・ 霊山寺を出発して西へ。北風が強く小雪が舞っていた。
焼山寺、鶴林寺、太龍寺という山越えの難所をしのぎ、6日後に太平洋岸の日和佐町にある 二十
三番・薬王寺に着く。 ここで阿波の札所は終わりである。 もう1日かけて県境を越え更に1日歩いて
3月 1日に室戸岬着。 高知市ではお城にも登り 10日は最南端、足摺岬の三十八番 ・ 金剛福寺を
打つ。 翌々日には土佐の国を踏破。 12日かかった。
 宿毛市から宇和島市へ北上、 山中深く入って17日に四十五番 ・ 岩屋寺。 ここで札所の半数を
超える。 松山市、今治市を経て、六十番 ・ 横峰寺という、これも山奥の札所に登り、六十五番 ・
三角寺着が 24日、伊予路も 12日を費す。 25日には標高の一番高い900米の山上にある六十六
番 ・ 雲辺寺を越えて讃岐に入り、 5日歩いて 3月 29日に結願寺の大窪寺にたどりつく。 二つ前
の志度寺で桜の花を見た。
 山登り 6カ所、 準ずるもの数カ所、峠も多々あってかなり難行であった。 薄灰色の作業着に経帷
子を羽織り、首から頭陀袋 (中に数珠あり) を下げ、登山帽に軽登山靴、 約 15キロのリュックを
背負って金剛杖をつく。 これがわが遍路姿である。 正装はおこがましいので遠慮した。 腰痛持ち
だし脚も痛んだが使い捨て懐炉とサロンパスでしのいだ。 一度大腿部に激痛が来た。 幸い街中
だったので、すぐ宿屋に入り、 こたつで温めると翌日には回復していた。 リュックによる肩の痛み
は数日で気にならなくなった。
 歩くことが目的とはいえ、 阿波から土佐の太平洋岸 80キロ、土佐の山中、 足摺までの東岸また
西岸の長さにはうんざりした。 トラックが走るだけで半日、人を見ない日もある。 室戸へ○○キロ、
松山へ△△キロという距離表示の数字の減るのがわずかな慰めである。
 苦しい時は軍歌がいい。 リズムが脚の運びを軽くする。 声を出すと疲れが募るので、頭の中で
口ずさむ。[ 堅き心の一徹は / 石に矢の立つためしあり / 石に立つ矢のためしあり ...] ( [ 敵は幾
万 ]・山田 美妙作)、[歩兵の歌] [戦友] [星落秋風五丈原] (土井晩翠作) など。 大抵、明治の歌
である。こういう時まことのお遍路は念仏を唱えるのだろうか。
 足摺岬の西岸では、[われは海の子]、 山中では [箱根八里]。 これは今もウォーキングの伴奏歌
である。 伊予に入ってからは黙って歩くことに慣れた。
 3月も中旬になると、お寺ではたくさんのお遍路に会う。 バスツアーが始まるからである。 だが [歩
き遍路]を見ることは滅多にない。 前後数キロを見通す国道で目を凝らしても白衣の姿はない。 人
の影さえ見えない。 それでも5人と口を利くことができた。
お遍路は納札を名刺代わりに住所氏名を書いて交換する習慣があるらしいが、求められた一人を
除いてそれをしなかった。 同じ宿屋を出ても脚力が違うのですぐ離ればなれになる。 お寺で再会す
ることが多い。
 第1日に宿屋で一緒に夕食をしてから松山市までで 8回会った人がある。 東京で病院勤めをする
仙台出身の若い人だった。 なぜお遍路するのか聞かなかったのを今も残念に思う。
元高校の美術教師で今はカメラマン志望という青年とは足摺岬近くですれ違って以来 5回会った。
3回目は瀬戸内沿岸を2時間ほど一緒に歩いた。 フィレンツェ留学の体験談を聞く。 ワインもいいが
今度は焼酎をというので愛用の銘柄を教えた。 夫人はオペラ歌手という。 イタリア人かどうか聞か
なかった。 鳴門の人である。 カメラマンとして売れていればいいがと思う。
 納経帳に押印 ・ 揮毫してもらうのが遍路の目的の一つである。 掛軸や経帷子を持ち込む人もいる。
家宝にするらしい。 受付けは歩き遍路優先と聞いていたがそうではなかった。
応対が不愉快だという声もあり、経験もした。 しかし怒ってはいけない。 遍路十善戒の一つ[不瞋恚]
に反する。 自分に原因があることもあるのだ。 讃岐では少し違ったと思う。 同県生まれの身びいきか
もしれぬが。 「 歩きですか 」と手招きし、先着のまとめ役 ( 大抵バスの添乗員 )をさしおいて押印して
くれた寺があった。 また納経帳を高く捧げ押し戴く僧がいて体がふるえた。 もちろん仏への礼拝であ
ろう。 しかし結願まであと少しを残し千余キロを歩き通した老遍路へのねぎらいを感じたのである。
高松市に入ったところでは追い越しざま 「 頑張って !」 と激励の声を残していったバスの団体遍路も
あった。
 初めてお接待を戴いたのは徳島市郊外で70歳半ばの婦人であった。 以後お金を戴くことが多かっ
た。マイカー同乗を辞退して代わりに過分のお布施を差し出されたこともある。 高知名産のポンカン、
缶入り茶、アンパン、昼食代金のおつりに百円をプラスするのもあった。
高知県窪川町近く七子峠の下で戴いた文旦の苦みの利いた上品な味は忘れられない。 道に迷えば
親切に教えてくれる。 これもお接待なのである。
 中学生の頃、生家から近い札所へ集落の若い衆とお接待に出かけた。 大抵お米だったように思う。
餅や菓子もあっただろうか。 米なら遍路宿に渡せば宿賃の足しになったはずである。 お接待に手を
合わせる老遍路、川の堤を鈴を鳴らして行く白衣の姿が脳裏によみがえる。
 阿波の山中から終始鶯の声に迎えられ、春まだ浅いのに椿や菜の花を見た。 室戸岬では田植え前
の代田で鳴く蛙の声まで聞くことができた。 ピーヒョロと空に舞う鳶など何十年も忘れていた。
讃岐の多度津という町で年とった民宿の女主人から [遍路の効き目は3年]と聞かされた。効き目の
内容は確かめなかったが、3年たてばまた出かけたくなるというのである。 四国の自然と人情、遍路
の道という不思議な空間に魅せられたことは間違いない。 いずれ再訪のつもりである。
  
.......八十四番 ・ 屋島寺にて..... ............................四国霊場
【註】 1999年7月、寄稿された。     原文は[四国を歩く]であった。
   外国人にも読ませたいと思ったので英訳して載せた。 
    English version is here.