戦後五十年 ・ 私の思い出

                                             中嶌 秀治郎


[註] 中嶌 秀治郎さんは1926年生まれ。 終戦により陸士中退後、彦根経専卒。 滋賀県内の
    中学 ・ 高校教諭として45年間、勤務され、現在、滋賀学園高校非常勤講師。 滋賀県近江
    八幡市に在住。

    平成25年6月に逝去された。


 [馬上少年過ぐ、 世平過にして白髪多し、 残駆天の赦すところ楽しまざるをこれ如何にせん。
五十年前少壮の時、 功名聊復自ら私かに期す。 老来識らず干戈の事、只把る春風桃李の
盃。]  略 10年前 NHK 大河ドラマ 『独眼龍政宗』が童名 「梵天丸」として米沢城で少年
時代を過ごした感慨をのべたものといわれていますが、 敢えて肖る意図をもつ積もりはありま
せんが些か共鳴を禁じ得ません。
 人生二十年 〔第二次世界大戦終局の頃の合い言葉〕の小さな戦争体験 〔死の時代〕から
今日の人生八十有余年の平和な時代 〔生の時代〕への流れの中にも敗戦直後の虚脱と混迷、
唯呆然自失 [如何に生きるか。何をなすべきか]の問は五十年後の今日にも尚生き続けるこ
とを思えば感慨無量を覚えます。
 1926年 (大正15年)生まれ = 小生と申しますと治安維持法 がその前年に施行、恰も大正
デモクラシィーの終焉を告げるが如く昭和激動の歴史の端緒を刻んだ。 1929年世界金融恐慌
を乳幼児に過ごし、五歳の折りに満州事変勃発、1933年馬淵尋常小学校に入学、当時の国
語の教科書が前年度までの 『ハナ、ハト、マメ、マス、カラカサ ....... 』と白黒二色の絵入りが
『 サイタ、サイタ、サクラガサイタ、 : ススメ ススメ ヘイタイ ススメ』 とカラー一色豊かな絵と
墨文字に変わった一年次でした。
 小学校五年生 (1937年) 日中戦争、古びた板張りの薄暗い講堂のステージに立った校長が
金縁の眼鏡の上から大きな目玉を覗かせながら髭を撫で時局話、中学三年生 (1941年)で太
平洋戦争 [一億総動員]、[国民皆兵]の掛け声もすさまじく、男子は戦場に女子は銃後の守り
と軍需工場、町や村の主婦はモンペ姿の鉢巻で竹槍訓練、華々しきは従軍看護婦として第一
線に活躍、学園生活に打ち寄せる軍国の荒波に抗する術なく、戦争は必勝の訓練に次ぐ訓練、
土 ・日曜日を除く月 月 火 水 木 金 金 が日常生活のサイクルになってきました。
 [十年後の大学者になるよりも一年後には神兵に !] [人生二十年 ! 功名何ぞ夢の跡、消えざ
るものは只誠、人生意気に感じては成否を誰か論う] と。 (当時既に同盟国のイタリアでは無
条件降伏、スターリングラードでも、アッツ島でも、ドイツ軍、日本軍は共に ーー) 「決戦の年」
「総決起の年」として十七歳で決意、その年の秋、陸士合格の電報に感激、一躍祖国防衛の
一戦士として征途につきました。
 憧れの入学式も束の間の間、台上 (振武台、相武台)の生活は総てラッパの合図、起床 ・食
事 ・朝夕の点呼 ・学科 ・術科等など、先ずは耳目の訓練から消灯にいたるまで規律(軍規) の
習熟に専念、筆舌には到底及ぶところではないと思いますが、一 ・ 二 最も印象的な事象を列
記したいと思います。


東京大空襲について ...... 11 / 1 ... マリアナ基地 B29 東京を初偵察、
.......................................... 3 / 10 .... B29 .. 130機、 東京来襲
............................................4 / 7 .......B29 ..... 90機、 P51 .... 30機、 関東来襲
.........................................B29 ....150機、 名古屋に来襲 . B29 (百十数機) 大挙、大編隊にて
.........................................来襲 。 振武台上を通過、途中に投弾、 五発落下、損害あり、死傷も
..........................................加わり、聖地を穢す。 将校生徒一同奮起
.........................................7 / 30 ... 米機動部隊、 関東 ・ 東海 ・ 近畿に来襲。 米艦、浜松を砲撃
八月 十五日について
 1994年 7月 16日 (S. 19) サイパン島玉砕の報知を生徒舎の掲示板で目にした時のショックは
今もなお忘れられない。 本土決戦近しの感を余儀なくされた。 その年 11月 1日 マリアナ基地
を飛び立ったB29 偵察機が 1万米の高度で東京の空に飛来した。 東京大空襲はそれ以来その
翌年 2月、 3月10日、5月24日と下記のごとく来襲した。 その時の日記を繙くと次のように記され
ている。 [上記] 4 / 7 の日記
  .今までにない超低空で、敵 B29は真南から進入してきた。 その編隊と爆音は振武台上を
  圧し、頭上に来たときは空が暗くなったような気がした。 見上げる頭上に爆弾 (250 kg) は
  ビール壜のように、焦茶色に光ってスート落ちてくる。正に真上だ。 もうダメだ、 無蓋壕の
  中に頭を抱えて突き伏した記憶は、 爆弾の一瞬後、生きていた大きな喜びの記憶と共に一
  生忘れられない。  爆弾は学校の中央部を南北に連なって落下した。 その炸裂の瞬間、
  松の木や、校舎の羽目板や瓦が土埃と共に空高く這い上がるのが見えた。 この被爆により
   12名の方々が戦死された。 この中に滋賀県出身者が 2名おられたことが分かり、今なお、
  ご家族との交わりを深めつつも天上の英霊に衷心より誠を捧げています。幸い当馬淵学区
  残桜会が英霊にこたえる会の一環として毎年の慰霊祭 ・ その他の行事に参画されている
  ことは慶賀の至りとその思いを深くするものです。
最後に二言。 小生の直属上官のA氏は御歳91歳、今尚ご健在で著書 『荼毘の煙』を出版、
150歳 (中国人の常識)を目標に不老長寿に努めておられます。 A氏が最近、精神的に困惑
されておられることをご紹介。
 1. 教育勅語の廃止による国民道徳の乱れ
 2. 日本政府の謝罪外交
   ○ 広島 ・ 長崎の原爆投下について、アメリカは謝罪したでしょうか。
   ○ 西欧列国はかってのアジア諸国に対する植民地支配について謝罪しているでしょうか。
 3. 日本歴史の歪曲と教科書問題
さて小生、士官候補生として敗戦をむかえ断腸の思い耐え難きも、耐え難きを耐え、忍び難き
を忍び、平和国家再建への決意を新たにする。 顧みるに士校生活における三っつの柱、
@ 規律 (軍規)の確立  A武士的情誼(相互扶助)  B 団結 (仲間づくり) は智 ・ 情 ・
  意 : 真 ・ 善 ・ 美 にも匹敵すべく今後の指標として生を全うできればと ? ( 1999年 3月 記 )
備考 : 文中、陸士 ・士校とあるのは陸軍士官学校を示します。 その歴史は明治 元年、京都
  に兵学校が設けられ東京市ケ谷台から朝霞振武台 ・ 座間相武台 ・ 豊岡修武台と変遷し
  ています。 何れも陸軍将校養成の殿堂として位置づけられていました。
1999年7月 寄稿 .