私の教員人生

  わが教員人生は楽しいものであった。
時にはバタバタさせられたこともあったが、それらも過ぎてみればたいしたことではかった。 
言いたいことを言い、やりたいことをやってきたような気がする。

以下、いくつかの小話のようなことを述べて説明とします。

 旧制最後の卒業生として大学を出て、ある相互銀行に就職した。 しかしこれが失敗。 
[俺の性に合わない]と思ったが時すでに遅し。 しかし幸いなことに、その年の
6月、A県立
高校社会科の教員を一人、追加募集しているということを聞いたので
早速応募した。 試験
会場に出掛けてみとると四名ほど集まっていた。 やがて試験
官が現れて試験用紙を配り、
[産業革命について書いてください。]とおっしゃった。


  そこで私はすぐ挙手して[私は法学部の卒業生です。]と云ったところ、[それではあなたは憲
法第9条について書いてください。]とあっさり問題を変更してくれた。 おおら
かなものである。  
30分ぐらいで書き上げ、提出してもよいということなので出した
ところ[合格発表は今日の午後
1時に行います。]とのこと。 昼食を済ませて戻る
と[あなたは合格・採用です。]と通達。 
そこへ一人の高校長が現れ、その人に連
れられてB市郊外にある定時制高校へ行った。 
[あなたは本校定時制高校4年
生のクラス担任です。]と発令された。 その夜間定時制4年の
クラスはその一クラス
のみ。しかも17名の男子だけ。  夕方、校長さんがクラスの生徒に紹
介してくれて
早速、社会科の授業を実施した。 これがわが教員人生の第一日である。

 後日、彼らが卒業し、ある時クラス会を開いた。その席で数名の者が私に[今度来たクラス担
任は士官学校出であるから、さぞかし叩かれるであろう。]と当時話し合って
いたが、[先生は全
く叩かなかったね。]と云ったので[君たちは皆、良い生徒で叩くこ
となど考えたこともなかった。]
と答えた。
 その教員が生徒の懲戒や体罰問題に関心をもち、後に『学校教育と体罰』という本
を東京の出版社から出している。
  
 次に中堅教員としてある新設の県立高校へ赴任した。 その学校の校長さんは実に真面目な
紳士で教育的情熱も旺盛な方で財力もあった。 もう少し早い時期であれ
ば、ご自分で私立学校
を創られたのではなかろうかと思っているが少し我がままなところがあった。  私は自分では自
制的であると思っているが、職員会議などでは時々
その校長さんとは意見が合わなかった。 そ
のためか勤務評定はよくなかった。

 後日、私は県教委の人事担当になったが、ある日[俺の勤務評定はどうなっていたか]と考え、
倉庫に入って調べたところ[良]であった。   一年目、二年目は[良]であった
が、なるほど予
想どおりだなぁと思った。 しかし三年目からは[優]になっていた。
 ともにその高校を去ってか
ら、その方と酒を飲みながら時々、教育談義をしたが愉
快であった。勿論、その勤務評定の話
をしたことはない。

 次は県教委の人事担当時代。 教育長と高校人事担当だけで年一回、夕食をともにする機会が
あった。その時、その教育長さんが[杉田さん。 あんたは言いたいここと
を言うね。]と笑いながら
おっしゃった。 ところでその教育長さんは、その後、知事に
なられた。

 私は70才になって勲四等旭日小叙章を頂いたが、多分知事さんの推挙があったため
ではなかろうかと思っている。


 公立高校を退職してから、ある私立の高校長になった。 オーナーは私鉄会社の会長さん。
ご多忙のため入学式はおろか卒業式さえもいつも欠席、誰かが代読していた。
 また学監がその
会社から派遣されてきており、また事務長も籍はその会社にあった。
  学校の現況は学監などが
適当に報告しているだろうと考えていたので、さぼっていた
ところ、赴任した年の五月中旬、[校長
が直接説明するように]との、お達しであったので会
長室へ学監などと出掛けた。 入室して余り好き
ではない挨拶言葉であるが[ご不沙汰
しています。」と言ったところ、「そうだなぁ」とおっしゃった。

 学校の現状を報告し退出したところ、学監が「先生、気にしなくてもいいですよ。」と慰めてくれた
が当の本人はさして気にも留めていなかった。

 その後、その会長さん、学園の理事長でもあるがオーストラリアの姉妹校へも一緒に行っていただ
いたりした。メルボルンでその姉妹校の幹部を招待して開いたパーティで理事長(会長)が通訳付き
で挨拶されるのに、校長が英語で挨拶するのもどうかと思って事前に伺ったところ[結構]とのこと。
そこで英語でやったが、後で[あんたの英語はよくわかった。]とおっしゃった。 褒められたのか貶さ
たのか真意はよくわからないが、当の本人は褒められたものと思っている。 逝去されたときには、
私の追悼文が関係全会社の社内報で流れたりした。

 このように私の教員人生は愉快なものであったが、それだけに皆さんに感謝している。しかし私的
なこととなるとそうはいかない。 多少苦労している。 「天は二
物を与えず」とはこのような場合でも
当てはまるのであろう。
        (S,S,氏記)

追記  最近次の論考には感心した。 安倍政権はことに外交や国防について正当な路線を進めよう
    としているが、この時期できるだけ多くの人に読んでもらいたいと思うので関係者のご了解を得
    て下記する。

    ・ 部下に教わった真の勇気 ....【赤尾 純蔵さんの寄稿】