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海沼実と川田三姉妹 (1)

このじつに魅力的な人物たちについてどのように解説すればよいかずっと
考え続けてきた。筆者の一番好きな童謡作曲家は誰かと問われれば海沼実
と答えるし、一番好きな童謡歌手はといえば川田正子であり、川田孝子で
ある。

まず、海沼実(かいぬま みのる)について。
明治42年生まれで長野県松代の出身。松代中学在学中から友人と今で
言うバンドを組んで演奏活動をする。彼がいつ頃から童謡の道を志した
かはよくわからないが「赤い鳥童謡運動」に参加し「夕焼け小焼け」を
作曲した草川信を師と仰ぎ、昭和7年、海沼23歳のときに上京している
ところを見るとかなり早い時期から自分の進むべき道を決めていたと思
われる。

かくて、東京に出てきた青年海沼は東洋音楽学校に学ぶかたわら昭和8年
に近所の子供を集めて児童合唱団を設立する。これがその後ゆうに4分の
3世紀にわたって多くの童謡歌手を輩出した「音羽ゆりかご会」の誕生
である。この「音羽ゆりかご会」という名称は練習会場として借りていた
護国寺の所在地が今の東京都文教区の音羽だったことと海沼の師匠である
草川信の作曲した名作童謡「揺籃(ゆりかご)のうた」から付けたらしい。
こうして若き海沼は合唱団の育成に没頭するなかで川田正子、孝子姉妹
との運命的な出会いとなる。

昭和16年の暮れにはハワイの真珠湾攻撃で日本は太平洋戦争へ突入する。
川田正子、孝子姉妹が母親の須磨子に連れられて音羽ゆりかご会にやって
来たのはその翌年、戦雲急をつげる昭和17年の初夏だった。ところでこの
記事のタイトルには「川田三姉妹」とあるのに2人しか出てこないのは
どうしたことかと疑問に思った読者もいるかもしれないが三女の川田美智子
はこの時はまだ生まれてなかったのである。この美智子については後ほど
書くとして姉の正子は戦中から戦後にかけて、妹の孝子は戦後から昭和30
年代にいたるまで童謡歌手として圧倒的な人気を博すことになる。

川田正子(かわだまさこ)は昭和9年生まれ。NHKの紅白歌合戦の前身で
終戦直後に放送された紅白音楽試合に出演している。歌った曲は「汽車ポッ
ポ」。この歌は富原薫・作詞、草川信・作曲のもので、本居長世の作詞、
作曲した「汽車ポッポ」とは別の歌である。
このとき正子が唄った「汽車ポッポ」は戦前は「兵隊さんの汽車」という
題名で歌詞の内容も日の丸の旗を振って兵隊さんが乗った汽車を送りま
しょうというものだった。昭和18年の児童唱歌コンクールで正子はこの
「兵隊さんの汽車」を唄い、2位に入賞している。童謡の本によく載って
いる海沼実と正子が優勝旗の前にならんで写っている写真がこのときのもの
である。紅白音楽試合のときはこの歌詞のままではもちろんGHQの許可が
おりないので急きょ作詞者の富原薫に電報を打って依頼し、現在の歌詞に
書き改められた。ちなみにこの時の司会は紅組は水の江滝子、白組は古川
ロッパだ。

正子が唄った代表的な歌はもちろんまず、みかんの花咲く丘である。
昭和21年の夏、東京と伊東を結んでの初のラジオ二元放送のために急ごし
らえで作られた。放送と同時に大ヒットし並木路子の「リンゴの唄」と
ともに敗戦の焼け野原から復興へと向かう人々を励ます歌となった。
話が前後するが昭和20年の里の秋も名曲である。海沼実の作品では
この歌を高く評価する人が多いし川田正子も「里の秋」が一番好きだと
言っている。昭和22年に始まったラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌
とんがり帽子も忘れるわけにはいかない。戦争が終り、復員してきた
一人の若者と戦災孤児たちが共同生活を営みながら成長していく姿を描いた
ドラマは現在まで語り継がれる大ヒット作となった。

昭和22年になると変声期を迎え、高音が出しづらくなってきた。当時の
童謡歌手は発声練習もなく、地声で唄っていたので変声期になればもはや
唄い続けることは困難であった。ちょうど中学に入ったのを機会に正子は
引退を決意する。昭和22年8月31日、NHKは「川田正子を送る夕」という特別
番組を放送。さらに当時の会長から感謝状が贈られた。その後はゆりかご会
の合唱で唄うことはあったが単独でマイクの前に立つことはなくなった。
この頃、正子の引退を惜しむ手紙が殺到した。戦時中にラジオから流れる
彼女の歌声を聞いて励まされたという元兵士からの手紙も多かった。
以前、川田正子のコンサートを見に行ったとき「浜辺の歌」が始まると
前のほうの席にすわっていた老人が突然立上り正子に向かって最敬礼した。
あのときの老人もそうした元兵士の一人だったのかもしれない。

さて、第一線の活動から離れた正子は武蔵野音大の声楽科へ進む。ここで
思わぬ壁にぶつかる。それまで長い間地声で唄っていたクセが抜けず声楽式
の正しい発声ができないのである。焦らず、急がず単調な基礎訓練に耐えて
徐々に喉を慣らしていくしかなかった。その頃の正子を支えたのは将来再び
童謡を唄っていきたいという思いだった。このときの努力がみのり現在では
子供時代よりも高い声で唄っている。

音大を出てから正子は音羽ゆりかご会で子供たちのレッスンをしたり、合唱
で唄ったりしていた。しかし昭和54年に川田三姉妹の末子・美智子がゆりか
ご会の代表についたのを機会に正子はゆりかご会から独立した。そして同年
に森の木児童合唱団を設立する。67歳になる現在でもコンサートなどで美し
い歌声を響かせており、平成13年には東京NHKホールで歌手生活60周年の堂々
たる記念コンサートを開催した。

執筆 2000/08/13
更新 2002/02/05

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