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海沼 実(かいぬま みのる)という人物を御存知だろうか? 時は昭和の始めごろ、長野県松代の小さな和菓子屋に一人の少年がいた。彼は長男だったので将来は家業を継ぐことを期待されていたが商売にはいまいち身が入らなかった。音楽が好きだったので近所の仲間と歌ったり、音楽雑誌を読んでばかりいた。自分の本業には興味が持てず音楽の道に憧れる。今も昔も変わらないごく普通の若者だった。 古道具屋で買ったバイオリンをいつも持ち歩いていた。店の仕事が終ると裏の小さな沼に出て夜中まで練習した。しかし当時バイオリン教室などあろうはずもなく、体系的な教則本も無かった。日本で鈴木メソードなどのバイオリン練習法が一般に普及したのは戦後のことだ。ひたすら独学、それもほとんど試行錯誤に近いものだったろう。練習にかける熱意は大変なもので近所で知らない者はなかったほどだが全くの素人が指導者なしでいくら練習しても上達には限界がある。 しかし彼がバイオリンにこだわったのには理由があった。 音楽家になりたいという夢はあっても家業の菓子屋を継ぐように運命づけられた現実を変えることは不可能に思えた。この頃海沼はすでに結婚しており子供もいた。しかしくる日もくる日も菓子を焼いたり得意先を回ったりするだけの単調な生活に耐えられなくなっていた。ある日、得意先から帰った海沼はふすまを少し開けて部屋を見た。子供が遊ぶ姿が目に入ったが声をかけずそのまま家を出た。駅へ向かう彼の眼には涙が浮かんでいた。そして松代の実家へは帰ることはなかった。 このとき23歳の青年海沼。 宿は何とか確保できたものの先立つものがない。 東京都文教区の音羽にある護国寺を訪ねたのは数日後のことである。この寺では近所の子供を集めて子供会をつくっていた。住職に会ってみるとちょうど子供たちに歌を教える先生を探しているという。渡りに船とはこのことである。さっそく子供会の中に合唱団を作りレッスンを始めた。だが子供たちの親が持ってくる月謝は期待にはほど遠い金額だった。食うや食わずの貧しい下積みの生活がまだまだ長く続いたのである。このとき作った合唱団が元になって「音羽ゆりかご会」へと発展するのだがそれはまた後日の話である。 その後、なんとか資金を工面した海沼は東洋音楽学校に入学する。またこの頃から長野・松代の妻と子供も呼びよせて長屋で一緒に暮らしはじめた。しかし音楽学校の授業にはあまり出られなかったようだ。いくつもの合唱団をかけもちで指導に走りまわっていたがその報酬は微々たるもので食べていくのがやっとだったということもあろう。同郷の先輩・草川信にあこがれてバイオリンを専攻したがそれまでの独学で身についてしまった悪いクセを矯正するのは容易ではない。やがて学校でのレッスンに自信を無くしていったとしても無理はなかろう。背水の陣をしく思いで故郷を飛び出してきたものの生活は依然苦しく、バイオリンの腕前もなかなか思うように上達しない。こうしてすべてに自信を失いかける中で新たな活路を求めて作曲に本腰を入れはじめるのである。 主な参考文献 童謡は心のふるさと 川田正子 著 (東京新聞) みかんの花咲く丘 川田正子 --- 歌とその時代 恋塚実 著 (東京書籍) 昭和の童謡アラカルト 戦後篇 長田暁二 著 (ぎょうせい) 童謡歌手からみた日本童謡史 長田暁二 著 (大月書店) 第1部 編集後記 海沼実ファンを自認する筆者としてはホームページ開設以来いつかはこの特集を書かねばならぬと思いながら月日が過ぎてしまった。いよいよその思いを果たす時がやってきたわけだが原稿を書きながら改めて勉強不足を痛感する次第である。半世紀以上前のことゆえ正確な事実を調べきれない部分が多かった。もし誤り等あればご指摘いただければ有難い。また文章の冗漫を避けるため人名の敬称はすべて省略したことをお詫び申しあげたい。 |
執筆 2001/12/21