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昭和8年に海沼が作った合唱団はその後、草川信を会長にして「音羽ゆりかご会」という名称になり徐々に会員数も増えていった。海沼は歌唱指導にあたったがその教え方はとても熱心だったので次第に子供たちの歌唱力も伸びていった。しかし奇妙なことに彼の伴奏や歌は音楽の先生としてはあまり上手とはいえなかったという。 彼のバイオリンの腕前はあまり良くなかったのは有名な話だが苦学していた若い頃、音楽学校に在籍してはいたがとにかく生活が苦しく楽器の演奏ということについて充分なレッスンを受ける余裕はなかったのだろう。また東京に出てくる前にバイオリンを我流で練習していたことが上達を妨げたかもしれない。もちろん作曲についても学校で体系的に学ぶ機会はほとんどなかったと思われる。このあたり彼の後年の活躍を考えるとじつに謎の部分なのである。 結局彼は音楽学校には頼らずほとんど独学で作曲家としての力量を身につけたことになる。しかも昭和10年代中頃の短い期間内に急激に才能を開花させているのである。この時期の何が海沼を変えたのか非常に興味のあるところであり今後も調べていきたいと思っている。この点、彼と同じ年に生まれた作曲家・古関裕而も独学で作曲技術を身につけたことは共通している。海沼と古関は戦後の一時期ラジオドラマ等で共に活動している。両者の共通点などを調べるのも面白い研究テーマといえるだろう。 合唱団の運営も軌道に乗ってきたと思われる昭和12年頃からさかんに童謡の作曲に取り組み始めた。そして作品を童謡雑誌に投稿したり合唱団の子供たちに唄わせたりしていた。まだレコーディングするまでには至らず、生活は依然として苦しかったが希望に燃えて夢中で作曲に取りくんでいたのだろう。しかも作った曲をすぐに歌わせてみることのできる合唱団の存在は彼にとって大きな強みだった。この頃から音羽ゆりかご会は盛んに演奏会を行い、たくさんの新作童謡を発表している。 ちょうどこの頃、海沼は戦後になってコンビを組み「里の秋」や「蛙の笛」を発表することになる斎藤信夫と出会っている。斎藤信夫は明治44年生まれで海沼より二つ年下だ。千葉の農家の長男だったが千葉師範に進みやがて小学校の教員になった。いつの頃からか童謡の詩を書くことに熱中し仕事の合間に原稿用紙のマス目を埋めるようになる。 そしてある作詞家と知り合ったことから一度だけ自分の作品がレコーディングされるという好運があった。現役教師・斎藤信夫作詞の「お猿とからす」は日東レコードから発売された。唄っているのはなんと、戦後に大ヒット歌謡曲「君の名は」を唄った織井茂子である。織井はもともとは童謡歌手としてスタートしていたのだ。 斎藤はもしかしたら将来作詞家になれるかもしれないという淡い望みを抱いていた。「遊戯と唱歌」という月刊誌にいつも曲を投稿している海沼実という名前に目がついた。この海沼に興味を持った斎藤は東京の護国寺を訪ねた。二人ともまだ全く無名の若者であり童謡にかける思いなどを忌憚なく語り合ったのだろう。あるいは斎藤は自分の作品が吹き込まれたレコードを見せたかもしれない。まだレコーディングのチャンスに恵まれない海沼はおおいに刺激をうけたであろう。 この頃の海沼はひたすらに忙しかった。といっても作曲の仕事が舞い込んだわけではない。休日は合唱団の指導、夜は作曲の勉強そして平日の昼間は営業マンに早変わりした。自作の曲を書いた五線紙を風呂敷に包んでレコード会社への売り込みに歩いた。もちろん無名の彼がいきなり作品を持ち込んでもそう簡単にレコーディングしてくれる訳がない。ときには罵声を浴びせられながら門前払いされる日が続いた。だが彼はここで驚くべき粘り強さを発揮する。本当に何度も何度も足を運んで来るのでとうとうレコード会社の担当者が根負けして作品を検討することを約束してしまうという感じだった。 セールスの成功は必ず見込み客が一度「ノー」と言ったあとなのです。という言葉を残したアメリカのトップセールスマンの話があるが海沼がこのようなセールスの極意というべき姿勢を身につけていたのは長野にいた頃、菓子屋の息子として商売に携わった経験も生きていたのかもしれない。 さて海沼作品の初レコーディングは長田暁二氏の著書によれば昭和13年にポリドールから出た「軍艦旗の歌」(松美佐雄 作詞)である。筆者はこの歌は聞いたことがないのでどんな歌なのか全然知らない。さらに昭和14年頃から「あの子はたあれ」「お猿のかごや」「からすの赤ちゃん」などを次々とレコーディングしていく。長年の苦労がようやく報われ若手童謡作曲家として注目を集め始める。「あの子はたあれ」を唄った童謡歌手・秋田喜美子は当時の音羽ゆりかご会のスター歌手だった。秋田喜美子は当時では珍しく幼稚園に通っておりその時から音羽ゆりかご会で歌を習っていた。喜美子の唄った「あの子はたあれ」は復刻盤のCDが出ており当時の歌声を聞くことができる。「からすの赤ちゃん」は作詞、作曲ともに海沼実であり現在、護国寺の境内に記念碑が建てられている。だがやがて日本は太平洋戦争へ突入していく。軍部は国民の思想統制を強めるため出版や音楽などあらゆる分野に介入してきた。そして子供にまで軍歌調の勇ましい歌が奨励されるようになり大正時代から続いた日本の童謡はここへきて冬の時代を迎えるのである。 自然の風物や人の心の優しさを素直に歌いあげるのが童謡である。生涯、その童謡を作り続けた海沼にとって戦争中は不本意な思いにかられたであろう。戦局が悪化するにつれて少国民歌と呼ばれる子供向け戦時歌謡がさかんに作られるようになり多くの作詞家や作曲家が動員された。海沼も少国民歌をいくつか作っている。昭和17年の暮れに太平洋戦争開戦1周年に向けての国民決意の標語が募集された。そして12歳の少女が応募した「欲しがりません勝つまでは」が優秀作として採用され、この標語を題名とした歌が山上武夫作詞で開戦記念日に間に合うように急いで作られた。 どんな短い鉛筆もで始まる「欲しがりません勝つまでは」は海沼の作曲で発表されるや大ヒットとなりこの標語はその後長く流行語となった。 ラジオから自分の作った少国民歌が流れるたびに海沼は違和感を感じていただろう。故郷を捨ててまでして目指してきたのはこのような歌を作ることではないと歯ぎしりしたかもしれない。だが時代の濁流は多くの音楽家を否応なく巻き込んでいった。彼が本当に水を得た魚となって活躍するためには終戦を待たなければならなかった。 主な参考文献 童謡は心のふるさと 川田正子 著 (東京新聞) みかんの花咲く丘 川田正子 --- 歌とその時代 恋塚実 著 (東京書籍) 昭和の童謡アラカルト 戦後篇 長田暁二 著 (ぎょうせい) 童謡歌手からみた日本童謡史 長田暁二 著 (大月書店) 第2部 編集後記 大正時代の中頃から昭和の前半まで続いた日本の童謡のいわば「トリ」をつとめた海沼の本領がこれからいよいよ発揮される。戦時中に途絶えかけた童謡を戦後見事に復活させた業績はしかしながら海沼単独によるものではなく童謡歌手・川田姉妹との共同作業という面が大きい。この川田姉妹との運命的な出会いについても次回以降にふれるつもりである。 |
執筆 2002/2/17