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詳説・ 海沼 実 (3)

---童謡ひと筋に駆け抜けた作曲家---


故郷をあとにして東京へ出て来てからずっと貧乏のどん底の生活にあえいでいた海沼も昭和10年代後半に入ると若手の新進作曲家として次第に注目されてきた。音羽ゆりかご会のほうもラジオ出演やレコーディングをこなす実力のある童謡歌手が一人、二人と育ってきていた。長年の苦労がみのりようやく未来に光明がさしてきたかに見えた。だが時代はすでにアメリカとの戦争へと傾きつつあり、音楽家といえども暢気に童謡など作っているとは何事かという風潮になってきたのである。

ようやく音羽ゆりかご会の運営も作曲家としての活動も軌道に乗り始めた矢先に肝心の童謡の作曲がやりにくくなってきたのである。この頃の海沼の戸惑いは大きかっただろう。時代の流れとして彼も「欲しがりません勝つまでは」など戦時歌謡の制作やラジオ放送に協力しないわけにはいかなかった。しかしこの頃、彼のその後の運命を決定づける重大な出会いが待っていたのである。

音羽ゆりかご会には常時、数十人の子供が在籍していたので海沼は子供たちの父兄や学校の教師に知り合いが多かった。ゆりかご会の方針は礼儀作法のしつけに厳しく、学校の勉強を最優先させるというものだったので学校関係者のあいだでは非常に評判が良かった。そのため教師のなかには若い海沼を尊敬しさまざまに協力する人も現れていた。西桜国民学校のある教師は自分のクラスの生徒を音羽ゆりかご会に入れようと考えた。そして10人の生徒を選び海沼に紹介することにした。ゆりかご会の練習会場であった護国寺でオーディションが行われた。生徒たちは一列に並び一人ずつ唄った。曲は「春の小川」と「揺籠のうた」である。海沼は度の強い眼鏡越しに子供たちを見つめていた。表情は真剣であったが、その眼にはどことなく優しい雰囲気があった。

子供たちが帰ったあとも海沼はしばらく考え込んでいた。机の上には子供たちの名簿が広げてある。彼には一人の子の印象が強く残っていた。いかにも気弱そうで蚊の鳴くような小さな声で歌っていたがなんとなく魅せられるものがある。よし、この子に童謡を唄わせてみよう。そうつぶやきながら名簿の名前に印をつけた。川田正子7歳、国民学校2年生。さらに彼はしばらく名簿をにらみ全部で三人の名前に印をつけ、さきほどの教師のもとへ送った。

新しく入会した3人のレッスンが始まったのは数週間たってからだ。ところがそのうちの2人は間もなくやめてしまう。すでに太平洋戦争が始まっていたので無理からぬことであった。しかし川田正子はずっと通い続けた。しかもしばらくしてから妹の川田孝子もゆりかご会に入会した。海沼は自分の見込みが正しかったことを次第に実感していく。正子の透明感のある高音は童謡を唄うのには最適だと思った。

今度とても声のいい子が入りましてね、将来楽しみですよ。

海沼は音羽ゆりかご会に取材に来ていた音楽雑誌の記者にこう語ったという。その記者というのは戦後コンビを組んで「みかんの花咲く丘」を世に送り出すことになる加藤省吾である。

はたせるかな正子はメキメキ頭角を現し、入会1年後には歌唱コンクールで2位に入賞した。このときの1位は同じく音羽ゆりかご会の童謡歌手・大道真弓である。この頃ゆりかご会はラジオに頻繁に出演して少国民歌謡などを唄っていた。そして出演者リストには川田正子の名前が目立つようになっていった。本土の空襲が始まると音羽ゆりかご会の子供たちもどんどん疎開していったのでなおさら正子の出番が多くなっていった。

そうこうしている間にも戦争は激しくなり東京でも頻繁に空襲警報を聞くようになってきた。住居を焼け出された海沼は妻子を実家へ疎開させて川田家に転がり込んだ。さらに、ほぼ時を同じくして正子の二人目の妹・川田美智子が誕生した。乳飲み児を抱えて空襲度重なる東京にとどまるのは大変危険な状態だった。

正子の母親・須摩子は孝子と美智子を連れて疎開することに決めた。だが正子はすでにゆりかご会のスター少女歌手としてラジオ出演などに活躍していたので須摩子は本人の意志を尋ねてみた。

あなたは、どうするの。

私は海沼先生と東京に残る。死んでも歌っていたい。

この言葉を聞いたとき須磨子は「この子は唄うことで御国のために尽くしているのだからもしも死ぬことがあったとしても本望だろう。」と思ったという。かくて川田家には海沼と正子の二人だけが残った。燃えさかる東京で決死の二人三脚が始まったのである。

出演予定の歌手が空襲で来れなくなるとNHKに近い川田家に電話が入る。「マアちゃん、さあ行こう」海沼は自転車の後に正子を乗せるとあわただしくこぎ出していった。正子は防空頭巾をかぶっている。遠くの景色に目をやるとあちこちから煙があがっている。NHKに着くとすぐにぶっつけ本番で童謡・唱歌から戦時歌謡、軍歌などなんでも唄った。この頃の話で面白いのは戦時中でありながらNHKには常時オーケストラが控えていて、たった一人の少女歌手がいつもフルオーケストラをバックにして唄っていたという。

いよいよ空襲が激しくなってくるとNHKの地下室に毛布をしいてみんなで寝泊りした。そして一日に二度も三度も唄った。空襲警報のサイレンが聞こえない日はあっても川田正子の歌声が聞こえない日はなかったといわれたほどだ。海沼は連日繰り返される正子の出演に備えてNHKの資料室にこもってオーケストラのための編曲に没頭した。才能を開花させるにはある一時期がむしゃらな訓練、それも質よりも量が必要な時期がある。このときの経験が海沼の音楽家としての力量を大幅に向上させたのは間違いないだろう。

そして8月15日、長かった戦争が終った。ラジオの玉音放送では昭和天皇による重大発表が放送された。当時一般の市民で天皇の声を聞いたことのある人はいなかった。みんなラジオの前にあつまり、固唾をのんで天皇の声が流れるのを待った。ラジオの声は聞き取りにくかったが「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み・・」で始まり、ややあって「堪へ難きを」でひと呼吸おいて「堪へ、忍び難きを忍び・・・」の言葉を聞いたとき人々は神州日本が敗れ去ったことを実感した。ある者はその場に泣きくずれ、ある者は拳を握りしめ、またある者はラジオの前で土下座したまま動かなかった。

自分たちの生活、そして日本という国の運命もこれからどうなっていくのか全くわからなかったが海沼は意外なほどにあっけらかんとしていた。

マアちゃん、日本は戦争に負けてしまったよ。しかたないじゃないか。でも、これからは好きな歌がいっぱい唄えるよ。
とつぶやくように言った。川田正子は黙ってうつむいたまま聞いていた。このとき二人はまだ気づいていなかったが日本童謡の最後の黄金時代がすぐそこまで近づいていたのである。




主な参考文献

童謡は心のふるさと
川田正子 著 (東京新聞)

みかんの花咲く丘 川田正子 --- 歌とその時代
恋塚実 著 (東京書籍)

昭和の童謡アラカルト 戦後篇
長田暁二 著 (ぎょうせい)

童謡歌手からみた日本童謡史
長田暁二 著 (大月書店)


第3部 編集後記

新緑の5月である。ちょうど1年前のこの時期に「みかんの花咲く丘」の解説記事に掲載するための「みかんの花」の写真を撮るために静岡県のみかん山にのぼったことを思い出す。時期としては少し遅く、撮影できるかどうか心配だったのだが山の上のほうにはまだ花が残っておりその可憐な姿をカメラに収めることができた。次回からはいよいよ「みかんの花咲く丘」や「里の秋」など次々とヒットを飛ばした海沼の戦後の活躍を描く予定である。

先日(3/28)筆者は音羽ゆりかご会のコンサート「ゆりかご童謡祭」を見に行った。コンサート会場ではこのサイトからリンクしているホームページ「古関裕而 歌い継がれるメロディー」の作者と偶然出会い、ありし日の海沼実氏や古関裕而氏の業績について語り合った。中でも話題にのぼったのが海沼実氏のお孫さんである三代目・海沼実さん(お爺様と同名)についてであった。お爺様と同じく作曲家の道に進むとともに、音羽ゆりかご会で指導にあたられている。つい先日はNHKラジオ深夜便にて三代目・実さんのお声を初めて拝聴した。その丁寧な言葉使いと柔らかい雰囲気はいつもニコニコして優しかったお爺様の特質を受け継いだものであろう。


執筆 2002/05/25

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