大正7(1918)
作詞 西條八十(さいじょう やそ)
作曲 成田為三日本の童謡史上に燦然と輝くこの名歌の誕生は同時に近代の童謡の
あけぼのでもあった。そして児童雑誌「赤い鳥」を舞台にした新しい
子供の歌を作る運動が開花した。作詞では西條のほかに北原白秋、
三木露風、作曲では成田為三、弘田龍太郎、山田耕筰などがこぞって
作品を発表している。この「赤い鳥童謡運動」が続いたのはたかだか10年あまりのこと
だがその間に発表された作品の数々は80年を経た現在でも生命力を
失っていない。とにかくすごい時代だったようだ。さて「かなりや」を書いた西條八十はもともとは裕福な家庭に育った。
しかし詩人を目指していた学生時代に父親の急死で財産を失い、貧困な
生活へ転落した。母や兄弟を養うための苦しい生活、しかし詩人になる
夢はすてられない。今も昔も詩の道は貧困との闘いでもあるようだ。
しかしそんな悶々とした西條にも転機が訪れる。チャンスを運んで来た
のは「赤い鳥」だった。夏目漱石の弟子で小説家の鈴木三重吉は当時子供にうたわせたい歌、
読ませたい作品の無いことを感じていた。従来子供の歌といえば江戸
時代から伝わる「わらべうた」や学校で習う「唱歌」であった。今に
なって見ればこれらの歌も貴重な文化遺産であるが当時の新進気鋭の
詩人や作曲家にはひどく古くさい物に映っていた。特に唱歌については
激しく批判する人が多かった。このような状況の中で鈴木三重吉は「童話と童謡を創作する最初の
文学的運動」という目的のもとに大正7年、児童雑誌「赤い鳥」を
創刊した。童謡詩人としてまず北原白秋が参加していたが三重吉は
さらに西條にも執筆陣に加わるように勧めた。このとき三重吉は自ら
神田の某出版社の2階に住んでいた無名時代の西條を訪ねている。そしてついに「赤い鳥」大正7年11月号に「かなりや」は掲載され
た。これをきっかけに才能を開花させた西條は自身が忘れた歌を思い
出したカナリヤであったかのように童謡に、歌謡曲にと怒濤の快進撃を
開始する。この当時の心境を彼は「現代童謡講話」に次のように書いて
いる。「歳月の寛大な掌は、この哀れな金糸雀(かなりや)に忘れた
昔の唄を思い出す機縁を与えてくれた、私は遂に一箇の詩人として
再生した。」
執筆 2000/8/29