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みかんの花咲く丘


わたしが「みかんの花咲く丘」を作ったのは昭和21年8月24日の12時半から13時くらいの間であった。

この歌の作詞者である加藤省吾は自伝の冒頭でこのように書いている。しかし、作詞した日付のみならず時刻まで正確に憶えているのはどういうことだろうか。しかもよく読むと12時半から13時までのわずか30分間で書き上げたというのである。

過去、多くの大ヒット曲がそうであったようにこの歌も本当にきわどい偶然によって生み出された。後に名コンビとうたわれた海沼実と加藤省吾が生み出した作品第1号にして戦後童謡、最大の傑作「みかんの花咲く丘」は様々な条件がひとつ欠けても世に出ることはなかった。

ところで、みかんの花がどんなものか知らない人も多いだろう。筆者もこれまで実物を見たことはなかった。そこで今回の記事を書くにあたり、5月の中旬ごろ静岡県三ケ日のみかん山に登り、デジタルカメラにおさめてきた。本当は「みかんの花咲く丘」の舞台となった伊東市の海岸沿いのみかん山で撮影したかったのだが、また次の機会としたい。

加藤省吾。作詞家になることを夢見て故郷の静岡から東京へ出てきたが長いあいだ芽が出なかった。昭和12年にテイチクでレコーディングした「かはいい魚屋さん」でヒットを飛ばしてはいたが、まだ作詞だけで食べていけるまでにはなっていなかった。さまざまな職を転々としたのち、戦後はミュージックライフという音楽雑誌の編集員をしていた。

終戦から1年が過ぎた昭和21年の8月、ミュージックライフの特集で当時12歳の人気少女歌手、川田正子のインタビュー記事を載せることになった。加藤は8月24日の昼前に東京、芝の川田家を訪問する。この日こそ「みかんの花咲く丘」が誕生した日である。

加藤がいろいろ質問しても当時小学6年の川田正子は正座したまま「はい」、「いいえ」と短く答えるばかりであった。明るくおしゃべりな妹、孝子とは対照的である。約1時間のインタビューを終え、腰を上げたところへ2階から作曲家、海沼実が降りてきた。当時、海沼実は川田家に住み込んでおり、2階にピアノを置いて音羽ゆりかご会の練習場にしていたのだ。開口一番、海沼は「加藤さん、何か詞を書いてくれませんか」という。

急にそんなことを言われても何のことだかさっぱり飲みこめない。だいいち、海沼と加藤は後にゴールデンコンビと言われるようになったものの、当時はほとんど付き合いはなく、まして一緒に作品を作ったこともなかった。いや、一度だけあった。戦争末期、「忠霊塔の歌」という作品でテイチクでレコーディングされた。しかし間もなく終戦となりこのレコードは世に出ることはなかった。この「忠霊塔の歌」は筆者はメロディーも歌詞も知らない。

とにかく話を聞いてみると東京のNHKと伊東市の小学校を中継してのラジオ二元放送「空の劇場」という番組が企画された。その伊東市の会場で川田正子が唄う歌がまだできてないという。しかもその放送が明日だというのである。

いくらなんでも無茶だと思った。何とか言い繕って逃げたほうがいいのではないか。しかし海沼は親戚からもらった赤飯をご馳走してくれるという。食糧難の時代である。赤飯なんか滅多に食べられるものではない。それに今回の歌は1回限りの放送用だから気楽に作ればよいという。かくてまんまと詞を書かされることになってしまった加藤は故郷の静岡県のみかん畑を思い浮かべながら原稿用紙をうめていった。

歌詞を受け取った海沼は既にフリルのワンピースに着替え、身支度を終えて待っていた川田正子の手をつかみ、礼をいう間もなくあわただしく出ていった。そんなに急ぐのには訳がある。当時出版物や歌などは発表する前に必ずGHQの審査を受けなければならなかったのである。

海沼と川田正子が汗を拭き拭き飛び込んだ内幸町のJOAK日本放送協会には当時CIE米民間情報局とCCD米民間検閲部が陣取っていた。そこへさっき出来たばかりの加藤の詞を持ち込み放送許可が出るのを待った。もちろん歌詞には問題になるような言葉や内容は含まれていないのですぐに許可が降りた。

だがゆっくりしている暇はない。すぐに伊東行きの電車に飛び乗った。なにしろこの日は伊東行きはこれ1本しかなかったのである。やがて電車の心地よい揺れで正子はうとうと眠りについたが海沼にはもうひとつ大きな仕事が残っていた。

それは歌のメロディーを考えることである。なんとか伊東に着くまでに目鼻を付けようと思った。しかし、いくら歌詞を読み返してもいいメロディーが浮かんでこない。次第に集中力が途切れてくる。ふと彼は苦学した若い頃を思い出していた。故郷を捨て、バイオリン一丁持って上京した頃、そして音楽学校でよく弾いたオペラの曲を思い浮かべているうちに突然閃いた。

ワルツのような楽しい前奏を思いついたのである。歌全体のメロディーも自然に流れ出るように浮かんできた。こうして列車が伊東に着く頃には歌のメロディーは完全に出来上がった。この日、伊東の旅館で海沼は川田正子と一緒に風呂に入り、正子の背中を流しながら明日唄うことになっている新しい歌を教えたという。

1回限りの放送用にバタバタとあわただしく作られたこの歌は空前の大ヒットとなった。童謡歌手、川田正子の人気も頂点に達し、大人のスター歌手をも圧倒する勢いだった。こうして戦時中、下火となった童謡は戦後再び盛んに唄われるようになり、昭和30年代の前半頃まで「レコード童謡」は子供たちの娯楽として活況を呈した。

終戦直後に発表された「みかんの花咲く丘」という歌は童謡としては最も新しい時代の作品である。作られた当時のエピソードが詳細に知られており、多くの書籍で言及されている。当時この歌がいかに多くの人に愛されたかということの一つの証左ともいえるだろう。この文章を書くにあたり、以下の書籍を参考にさせていただいた。


主な参考文献

「みかんの花咲く丘」わが人生
(加藤省吾 著、芸術現代社)

みかんの花咲く丘 、川田正子、歌とその時代
(恋塚稔 著、東京書籍株式会社)

唱歌、童謡ものがたり
(読売新聞文化部編、岩波書店)

童謡へのお誘い
(横山太郎 著、自由現代社)


執筆 2001/06/30

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