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本居長世----童謡の黄金時代の開拓者---- | |
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「からす なぜ鳴くの からすは山に・・・」で始まる「七つの子」は「赤とんぼ」などと並んで日本の童謡の代表作といってよいだろう。それこそ平成生まれの世代でもメロディーぐらいは知っている。従来、カラスといえば真っ黒な体からどうしても悪いイメージで見られがちだった。現在でも縁起が悪いとか誰かが死ぬときはカラスがその家の回りに群がるとか言われることがある。童謡「七つの子」の出現はこのカラスのイメージをものの見事に転換してしまった。少なくとも子供たちにとってカラスとは愛苦しく、どことなくコミカルなキャラクターになった。このことで筆者が思い出すのは「黄金バット」である。悪役にされることが多い骸骨やコウモリがこの物語では正義のヒーローになる。黄金色の骸骨がマントを身にまとい、けたたましい笑い声とともに出現し悪人を退治する場面は実に痛快である。この「黄金バット」。紙芝居として初めて登場したのは昭和6年頃のことだそうだ。 少々話が横道にそれてしまったがこの「七つの子」や「赤い靴」そして「青い眼の人形」といった現代にも唄い継がれている童謡の作曲者が本居長世(もとおりながよ)という人物である。明治18年に生まれた長世は祖父・本居豊穎(とよかい)の手で育てられた。本居家は国文学者本居宣長の家系であり、祖父も国文学者だった。当然長世も将来は祖父の後を継いで国文学者になることを期待されていた。長世自身もはじめはそのつもりだったが長ずるにつれて次第に音楽への憧れを強めていった。 長世が音楽家になりたいという夢を抱くきっかけになったと思われるのは中学時代の体験である。彼の通っていた独逸協会中学の講堂には大きなグランドピアノが置いてあった。明治の中頃のことだからそんなものを置いている中学校は他にはまずなかった。ドイツ系の学校なので式典のときなどは外国人の音楽教師がグランドピアノを流麗に奏でたであろう。長世はこの黒光りする巨大な楽器から流れ出る軽快で美しい調べに酔った。どうしてもピアノが欲しくてたまらなくなった長世は紙に鍵盤を書いて机に置き毎日ピアノを弾くマネをして叩いていた。 こうして若き長世はいつしかピアニストになりたいと思うようになった。そして祖父の反対を押し切って東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学する。晴れて音大生となった長世はとうとうピアノまで祖父にねだって買ってもらう。当時ピアノは大変高価なものであり一般の家庭にそうやすやすと置けるものではなかった。長世の家の裕福さがうかがえる。同級生の多くもやはりピアノを買うことは無理なので朝早く学校へ来て空いているピアノで練習しなければならなかった。 経済的に余裕のあった長世は音楽学校時代、何物にも煩わされることなく音楽の勉強に没頭したのだろう。学業の成績はいつも主席だった。ピアノのほうはドイツ人教師のハイドリッヒそして、フォン・ケーベルの授業を受けた。ケーベルは哲学者でもあり夏目漱石の「ケーベル先生のこと」に描かれている。独協中学出身の長世はドイツ語が堪能であり、ドイツ人教師と親しく交流することができたのは大変な強みだった。こうして長世はおそらく当時としては日本人トップクラスのピアノ演奏技術を身につけた。 明治41年、長世は東京音楽学校を主席で卒業した。同じ年の卒業者の中には後にライバルとなる山田耕筰の名前も含まれている。さて長世は卒業後すぐに母校に招かれ箏曲や長唄など日本の伝統音楽の研究活動に従事する。このときの経験が後に彼の童謡の作曲スタイルに影響を与えたのは間違いないだろう。その後彼はとんとん拍子に昇進する。明治42年には器楽部のピアノ授業補助となり、さらに翌年にはピアノ科の助教授となった。「ピアニストになりたい」という長世の若き日の夢はとりあえず実現したといってよいだろう。彼のピアノの腕は定評があった。若いころ長世の教えを受けていた歌手の藤山一朗は戦前の音楽家でピアノが上手なのは本居長世と弘田龍太郎であるといっている。ところがある時期から突然長世は作曲家に転身してしまうのである。そして助教授の地位も捨て学校を辞めてしまう。この辺の事情については藤山一朗によれば長世は指に怪我をしたためピアノの演奏を断念し作曲家への道を模索し始めたのだという。 時は流れ大正時代の中ごろになると子供の歌の世界で新たな流れが生まれてきた。やたら説教じみた歌詞に退屈な曲をつけたものが多い従来の学校唱歌に不満を感じていた詩人や音楽家たちが童謡と呼ばれる新しい歌を作り始める。そこには子供相手の歌だからといって決して手抜きなどせず、高い芸術性をそなえたものを作ろうという理念があった。大正7年に鈴木三重吉が創刊した児童雑誌「赤い鳥」誌上では北原白秋、西條八十らの書いた童謡詩に山田耕筰、成田為三らが曲をつけていった。 童謡こそ作曲家としての自分がこれから進む道と感じた長世は一足遅れて雑誌「金の船」で童謡界にデビューした。大正8年、富豪の息子であり文学青年でもあった斎藤左次郎はこの頃急速に注目を集めていた「赤い鳥」を見て大いに発奮し、この新しい流行に飛びついた。そして自分でも児童雑誌を創刊した。それが「金の船」である。童謡詩の執筆には野口雨情があたっていた。そして斎藤は当初は中山晋平に作曲を頼んだ。ところが晋平の言うには野口雨情の詩には日本的な旋律を得意とする本居長世のほうが適任として長世を推薦した。これが縁で長世は雨情の詩に次々と曲をつけていくことになる。 さて華々しく注目を浴びて始まった童謡運動であったが作品発表の場は児童雑誌が中心であり、蓄音機やラジオはまだ普及していなかった。まして学校ではまだ明治以来の唱歌教育一辺倒であり、間違っても童謡が教えられることはなかった。しかしそのような不利な条件にもかかわらず新しい「子供のうた」は雑誌や楽譜などの出版物を頼りに人から人へと口移しのように広がっていった。戦後の童謡の秀作「サッちゃん」を書いた阪田寛夫は子供時代を振り返り、
と述べているようにメディアが発達していなかった時代にもかかわらず、発表された童謡はいつのまにか多くの子供が歌っていた。現代でも流行歌や流行語といったものは特に意識的に広めなくてもいつのまにか皆が知っているようになるものである。大正後期から昭和初期にかけての頃はまさに童謡が時の歌として急速に流行していったのだろう。
2000/12/05 | |
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