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本居長世 ハワイ紀行


月の沙漠を はるばると
旅の駱駝が ゆきました

教師の職を捨て、作曲家を目指して東京に出て来た佐々木すぐる(1892-1966)はまだ無名だった昭和初期に、自信作「月の沙漠」をひっさげて日本中を演奏旅行したが本居長世は日本国内のみならず、遠くハワイ、アメリカにまで足をのばしている。今でこそ海外旅行は国内よりも安上がりだが当時は一般の人が海外に行くのは簡単にはできない時代である。にもかかわらず長世は自分一人だけでなく、長女みどり、次女貴美子を連れて約4ヵ月におよぶ船旅をしている。どうしてそんなことが可能だったのか。

長世一行がハワイへ向けて出発した1923年(大正12)は関東大震災が起きた年である。マグニチュード8の地震で東京は灰塵と化した。この時真っ先に救援物資を送り届けたのはアメリカであった。特にハワイの日系移民たちは自分たちの食費さえ切り詰めて祖国へ義援金を送った。学校の歴史教科書には載っていない意外な歴史の真実である。

間もなくハワイ、アメリカによる手厚い援助に対する答礼として使節団が派遣されることになった。実はこの答礼使節団に本居長世も参加していたのである。面白いのはこの使節団がハワイ、アメリカ各地で歌や踊りを披露してまわったことだ。特に長世と2人の娘、みどり、貴美子による童謡は現地の日系人たちに衝撃的な感動を呼びおこした。これは昭和2年に、やはりアメリカから「友情の人形」約1万2000体が贈られたことに対し日本からも振袖姿の人形がアメリカへ贈られた例にもみられるように実に文化的な国際交流だった。

約80年前のハワイの風景はどんなものだったのか。かつてハワイには大勢の日本人が移民した。南国の楽園を夢見て海を渡った人々の現地での生活は苛酷なものだった。灼熱の炎天下での農作業が来る日も来る日も続いた。「ホレホレ節」というハワイの民謡があるがハワイ移民一世たちの苦労をうたったものだろう。そうしたハワイ日系人たちが長世一行を熱烈に歓迎した。

どのような経緯で本居長世が答礼使節団に加わったのかはよく分らないがこの人選はまことに当を得ていたといえる。他には尺八や琴の奏者など総計7人が参加していたが、もし本居長世と娘たちが含まれていなかったとしたら使節団がこれほど熱狂的に歓迎されたか疑問である。

今は日本人観光客でにぎわうワイキキビーチがあるオアフ島、キラウエア火山があるハワイ島、さらにマウイ島を巡り、行われた演奏会は歌あり、尺八や琴の演奏あり、踊りありと大変豊富なメニューだった。

童謡や唱歌のステージというと歌手が直立不動の姿勢で歌うイメージがあるがみどり、貴美子の演技は長世の巧みなピアノ伴奏に乗せてひとりが歌いもうひとりがその歌に合わせて日本舞踊式に踊るというものだった。集まった人々はそれまでに経験したことのない鮮烈な印象を受けたに違いない。それは芸によって生計をたてる芸人のような感じではなく、名家の家庭に育ったお嬢様の気品を感じさせるものだったのだろう。「すばらしい女神たちだ」と涙を流して喜んだ人もいた。

かねてから「童謡の詞は子どもが書くべきだ」と考えていた長世は現地の児童から詞を募集し、そのうちの2作品に作曲し演奏するというサービスも行っている。「カナカの爺さん」、「タロの葉の露」の2曲がそれである。ところでこのハワイ童謡に関して最近、驚異的な出来事があった。去る2001年3月にNHKの「ラジオ深夜便」にて本居長世の特集が組まれたのだがその番組のなかで長世の3人の娘のうち唯一現在も健在の本居若葉(81)がこの「カナカの爺さん」、「タロの葉の露」を歌ったのである。80年前、若葉はハワイへこそ行かなかったが長世がハワイで作った童謡は80年の歳月を経て、若葉の声でラジオの電波に乗ったのである。

このように長世一行が持ち込んだ日本の童謡はやがてハワイの日系人社会に深く根付き独自の発展をとげていくはずだったが約20年後に起きる太平洋戦争によって根絶してしまう。周知のように大戦中、多くのアメリカ日系人が収容所で強制労働させられたが、ハワイにおいても学校での日本語教育の禁止、あらゆる日本語の書物の焼却がなされた。現在、若いハワイ日系人のほとんどは日本語が話せないし、日本的なものといったら寿司屋やカラオケボックスぐらいしか無い。まこと戦争こそは文化の大敵である。

横浜の波止場から船にのって
異人さんにつれられていっちゃった

名作童謡「赤い靴」は野口雨情の詞に大正10年、長世が曲をつけたことで永く後世に残る生命力が宿った。またこれも名作中の名作「青い眼の人形」も同じく船の旅、こちらは人形が外国から日本にやってくるという内容だが、そういう船旅を描いた雨情の詞に長世が作曲した。長世の作風は純日本風だとよくいわれる。その長世の曲が雨情の詞と相まって国際的な情緒を醸し出しているのは面白いことだ。そして、ついには長世自身が横浜の港から船に乗って外国へ旅立っていった。

執筆 2001/6/15

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