生きていくことは



 藤野義忠             English version, here
【 註】 藤野義忠さんは広島高師卒。兵役、愛知県内の高校、古知野高教頭、名古屋盲校長などを
    歴任され、昭和 56年退職。 現在、熱海伊豆山に在住されている。

人の生き方は各人各様で、同じ生き方はありません。 裕福な人、貯えのない人、頑健であっ
たり、ひ弱であったり、才色に恵まれた人もあれば、そうでない人もあります。柔和で情け深
い性格もあれば、個性的な考え方をする人もあります。 夫々の立場で自分なりの生き方
をしています。
これらの要因は先天的なものもあれば後天的なものもあります。 複雑に、濃く薄く重なり、
交わり合ってその時代の人間としての生き方ができると思います。 そのために社会生活に、
強者と弱者があり、人間価値に較差が出来てきます。
福沢諭吉先生は、学問のすすめの中で [ 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず]
といわれています。 人間尊重の立場から人は平等の価値を持つということです。 平等、自由、
更に平和は私達の悲願です。 しかし、この悲願へは一向に近づこうとせず、優勝劣敗、較差
拡大は進み、むしろ遠ざかっているように思います。
[天は人の上に人を造り、人の下に人を造る] というのが実態に合っているように思われます。
このような現象は、天の意志と考えるよりは、人間生活の伝統、慣習から生まれた較差と考え
るのが妥当かと思います。 しかしこの事は、内面的共感的な考え方や見方をすれば異なった
評価ができます。幸福そうに思われる人に深刻な悩みがあったり、恵まれないと思われる人が
豊かであったり、権力者の立場の人が孤独で寂しがり家であったりすることがあります。 裕福
と思われる人が心貧しい人であることはよく知ることです。
更には、私達の道徳性や教養、修養、宗教的な信仰によって、生きることの価値判断が相当
異なってきます。 世の中の事総てが天の意志としてそのまま受け入れられるような、わだかま
りのない心境になるかも知れません。
人は生きている限り、数多の苦難、悲哀に遭遇します。 人間社会の一時期の栄誉富貴、快楽、
愛別離苦、争い事は流れに浮かぶ泡沫の如く果敢いものかも知れません。 されど、当面の出
来事に心を奪われて右往左往しているのです。 雲は行き水は流れる。 悠久の時の流れのま
まに万物は流転変化します。何をくよくよ明日をのみ思い煩う、あるがままを受けとめていくゆと
りが欲しいものです
年齢を重ねて人生を振り返るとき、数多くの過誤に気付き、後悔することがあります。 多忙の
ために、他人の立場や窮状を見過ごしたり、無関心、無情であったりすることがあります。 不用
意な言葉に取り消しができず、茫然とすることがあります。 また時には軽率な言葉で心を傷つけ
たり、更には憎悪の言葉で失望の淵に追い込むようなこともあったことでしょう。 又あまり意識
しなかったような一寸したしぐさが、善きにつけ、悪しきにつけて相手には忘れられない印象と
なることがあります。 しかし時の流れと共に、心のわだかまりは柔らかくほぐされて、愛憎の念
は薄れていきます。
時ものを解決するや春を待つ
.................. 高浜 虚子
大海の波にゆられて、行方定めぬ人生で、優しさ、おもいやりのある生き方をすれば、多少でも
生活は楽しいものになると思います。 物欲を忘れ、こだわりの気持ちが薄くなって枯淡の境地
になりたいものです。
..... 1999年 (平成 11) 5月 寄稿....